法話・感話

紙芝居「願立寺の山門」④ 大阪城と北極星
2021.12.20|法話・感話

 

 

 

ご院さん:「この山門はな、いつまでも変わらない

    平和な世の中が続くことへの願いをこめて

    「不動の星」あの北極星にちなんでお城の北側にたてられた、

    川崎東照宮という大きなお宮さんから持ってきたんじゃよ。

 

    いつもいつも真北に見えているあの星みたいに

     ひとつも変わらんのじゃよ」

 

    「そのお宮さんはニックネームもあってな

     みんなが、親しみをこめて

     権現(ごんげん)さん、権現さんって呼んでいたんじゃ」

紙芝居「願立寺の山門」③ 葵の紋様
2021.12.15|法話・感話

 

 

ご院さん:「いやいやおふたり、これはこれは

     珍しいところに気が付かれましたなあー。

     実はこれなあ、葵の紋と言いますのや」

 

◇ハイカーさん:「ええ~、なるほど!葵の紋でしたか」

ご院さん:「そうです。実はこの葵の紋はむかし、

     江戸の時代をつくられた徳川家康さんのマークなんですよ」

 

◇ハイカーさん:「家康さんの紋、ああ、そうやったわ!

     へーーこんなところに・・・。

     ありがとうございました」

 

そう言って女の人たちは門の前を帰っていかれました。

     でも、がんちゃんはそんな珍しい瓦のある山門がどうして

     このお寺にあるのか気になって仕方がない様子です。

 

ご院さん:「よしよし、がんちゃんよ、

     それならすこし詳しくお話ししてみようか」

紙芝居「願立寺の山門」② 歴女さんのお尋ね
2021.12.8|法話・感話

 

 

がんちゃん:「え!!、か、瓦の事ですか?」

     「ちょ、ちょっとお待ちください! 

      ご、ご院さーん。

      山門の瓦についてお尋ねの方がきてはりますよ!

      ちょっと出てきてください!」

 

ご院さん:「何ですかな?、え?、はいはい!」

      「まあ、ようこそお尋ねくださいましたーーー」

 

ご院さんが急いで裏からやってきました。

紙芝居「願立寺の山門」① 瓦の紋からのメッセージ  作:わししんしょう 絵:やすいさなえ
2021.12.1|法話・感話

 

お寺のオリジナル紙芝居、「願立寺の山門」

    〜瓦の紋からのメッセージ〜の連載です。

 

 はじまり はじまり

みなさん、見てくださいこの山門。普通のお寺にしたら、

  大きくて立派ですよね。

  おやおや、見習い小坊主のがんちゃん、

  今日も一生懸命山門の前を掃除しています。

  そこにハイキングのお二人の方が通りかかりました。

 

◇ハイカーさん:「こんにちはかわいい小坊主さん!

     ちょっとお聞きしますが、

     この門の瓦についている模様何だったかしら?

     このあたりのお寺で、あまり見かけませんが?」

 

山門の瓦の紋を見て、がんちゃんに話しかけました。

 

がんちゃん:「え!!、か、瓦の事ですか?」

     「ええーっと、ええーと・・・ 」

 

本当のご利益
2021.10.19|法話・感話

 

親鸞さんの生きた平安末期から鎌倉時代、流行り病に当然ワクチンはないし、

特効薬もありませんでした。

ただ、祈る時代の疫病だったから人は当然次のように言うはずです。

「ぼんさん、どうにもならんのか」

「こういう事には力にならんのか」

それは現代でも同じ、東日本大震災でも言われたことです。

 

しかし親鸞さんの文章には「疫病退散のまじない」は無いのです。

お釈迦様もそうでなかった「病気にならない法」は説かなかった。

「不老長寿の法」「死なない法」「死者を甦えさせる法」等々が期待された時代ですが

一切説きませんでした。

ときに「仏教ってご利益が無いんですね」と言われることもある。

本当のご利益とは何かを尋ね極めたのが親鸞さんであり、お釈迦様なのです。

 

私たちは目の前の都合の悪い事を取り除けが「助かった」と言う。

あれば、問題はまた起こる。そしてまた取り除いてもらわないといけない。

それは、ずっと問題から逃げ続ける生き方になるではないか。

様々な事が起る中で、逆境であっても順境であっても生きていける。

たとえ失敗しても、上手くいかなくても、病気になっても強く生き抜ける。

極端な話が、死んでもあたりまえと頷けるたくましい生き方が本来の念仏なのだと。

報恩講執行2021

 

 

101617日との両日、報恩講のお勤めをしました。

 

16日は暖かい快晴で、夜に前線通過の雨風、17日には雨上がりの快晴という

コロコロかわる秋の天気でしたが運良く皆さんの参詣は足下が濡れることはなく

良い天気に恵まれました。

新型コロナ感染が急激に減少して、少しはホッとされたのか、

ご参詣も普段の賑わいに戻ってきました。

マスクを外さず、手指消毒し体温を測るなど感染対策をして、

ご講師の先生には不便ながらビニール越しのお話しをお願いしました。

 

勤行:   正信偈 和讃:  五十六億七千万

法話:   正行寺前住職 當麻秀圓師

講題: 「聖人一流の御勧化のおもむきは」

 

たくさんの御文の中でも特に有名で簡潔なお言葉から、親鸞聖人の特に大切にされた

お念仏の心を分かりやすくお話しいただきました。

「吊るし柿」は元々は「渋柿」、「渋」を消したり捨てたりせず渋があるまま、

太陽に光に照らされて甘く転換していく。

それは煩悩を消し去れない私たち凡夫にいただく弥陀の本願ではないかと。

今年も彼岸花が咲きました。

 

 

真っ赤な彼岸花が見頃です。

 

暑さも一区切りで朝夕の風が秋を感じさせる頃になると

不思議な程、きっちりと咲きだします。

気温が下がった頃という感じがしますが、昼と夜の日照時間によって

開花するとも言われます。

 

また種を作らず、球根で増えるのが特徴で、これは誰かが植えたということです。

毎年同じところに咲続けていて、多分先代が植えたのだと勝手に思っています。

 

「そろそろお彼岸やぞ、本堂の準備できてるか」と、だれかの声が聞こえるようです。

 

 

◎彼岸花 (別名・曼珠沙華)

彼岸花を「曼珠沙華」(まんじゅしゃげ)と呼ぶのは仏教からきたともいわれ、

お経にはお釈迦様が法華経を説きおわったあと、結跏趺坐され瞑想三昧の境地に入られた時、

天より曼陀羅華・曼珠沙華が降り注ぎ、それが仏の上や諸々の大衆に散らばり、

仏の世界は六方に震動したと表現されています。

 

・曼珠沙華・・四華の一つで、法華経が説かれる際の瑞兆として天から降り、

柔軟花赤団華とも漢訳され、赤い花とされ、見る者の固い心を柔軟にするともいう。

  (岩波仏教辞典)

紙芝居「願立寺の山門」完成!

 

紙芝居「願立寺の山門」〜瓦の紋からのメッセージ〜 が完成しました。

 

住職が伝え聞いた山門の由来を、いつか何かの形にしておきたいと思っていましたが、

絵本制作をコーディネートされている「中川たかこ」さんと絵本作家の「やすいさなえ」さんの

お陰で立派な「紙芝居」にしていただきました!

 

先日、はるばる寺までお越しになり直接「納品手渡し式」を行いました。

その時の様子(動画)です。ご覧ください。

 

住職と絵本作家やすいさなえさん(新型コロナの時期でマスク姿です)

インタビュー:中川たかこさん

 

https://www.youtube.com/watch?v=yv-wReHz7ho

 

 

ストーリー

当院の前を通りかかって山門の瓦の紋に興味を持たれたハイカーのおたずねから始まります。

江戸末期の混乱期に、困窮した民衆のために立ち上がった大塩平八郎の話題や

山門自体が今は無くなった歴史的な建物からの移築門であったりなど、お寺のペットだった

ミニチュアダックスをモデルにし「小坊主がんちゃん」と住職のかけ合いの形で

謎解きが展開していきます。

身近な自然に

バラン一色 (盂蘭盆会)

 

身近な風景や自然にほっとしたことはありませんか?

 

若い頃、バリバリ働いて仕事や趣味、家族と過ごしたり友人と遊んだり、地域の役どころなど、

様々なことに追われて生きてきた私たちです。いい歳になって、ふと立ち止まる頃、日々の

暮らしの中で、「あれ?何のために生きているんやろうか」と思ってしまうことがあります。

「そんな事、考えるだけ無駄や、美味しいもん食べて元気に暮らしていたら良いこともあるやろ」

と気楽に考えたりしますが、でもしばらくすると、やっぱり「何のために?」との思いが

もたげて来るものです。

テレビを見て気晴らしをしたりネットで解決法を探すのの一つですが、身の回りの何気ない

自然に目を向けてみることをお勧めしています。

 

住職の星好きもそんなところから始まっています。最近のデジタル化でかなりマニアックな

趣味のように見えますが、この銀河まで何万光年とか考えてみると大きな地球も仁丹の一粒に

なってしまいます。自然の大きな恵みを受けてこの世界に生きているのですから、

少々のことはそれを感じることで見え方が変わってくるものです。

ゆずり葉の詩
2021.5.9|法話・感話

ゆずり葉   河井酔茗

 

子供たちよ。

これはゆずり葉の木です。

このゆずり葉は 新しい葉が出来ると入り代わって

古い葉が落ちてしまうのです。

 

こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも

新しい葉が出来ると無造作に落ちる

新しい葉にいのちをゆずって――。

 

子供たちよ

お前たちは何をほしがらないでも

すべてのものがお前たちにゆずられるのです

太陽のめぐるかぎり ゆずられるものは絶えません。

 

かがやける大都会も

そっくりお前たちがゆずり受けるのです。

読みきれないほどの書物も

幸福なる子供たちよ

お前たちの手はまだ小さいけれど――。

 

世のお父さん、お母さんたちは 何一つ持ってゆかない。

みんなお前たちにゆずってゆくために

いのちあるもの、よいもの、美しいものを、

一生懸命に造っています。

 

今、お前たちは気が付かないけれど

ひとりでにいのちは延びる。

鳥のようにうたい、花のように笑っている間に 気が付いてきます。

 

そしたら子供たちよ。

もう一度ゆずり葉の木の下に立って

ゆずり葉を見るときが来るでしょう。

 

********

 

療養中の高齢になられた先輩から手紙をいただきました。

その中にこの詩「ゆずりは」河井醉茗、が紹介されていました。

はっとしました。

 

この詩は住職が小学校で子ども達を過ごしていたときに、教材として扱った記憶が甦ったのです。

ただ、情け無いことに詩のことはすっかり忘れていました。確か六年生の卒業を前にした頃の

国語の題材でした。黒板に書いて段落を区切り、ことばの意味を解き・・・子ども達から感想を

聞き・・卒業を感動的に向かえるには・・なんて授業成立に懸命に取り組んでいたことだったのか

と思います。

 

今改めてこの詩を読んでみると、非常に感じるところがあります。

人生、歳を重ねてやっとという想いでした。

 

現代を生きる大人に、「大切なものを作り、すべて譲っていく」という心を持って暮らしている人

がどれだけいるのでしょうか。もちろん私も含め。

 

科学万能、便利さの追求は決して間違ってはいません。世の中をきれいに清潔にし生活し易く

しました。しかし、もしも行き着くところが、お金がすべて、勝ったものがすべてと言うような

世の中を後に残すなら、大変な間違いを犯しているのではないか、そんな気がするのです。

 

美しいもの、素晴らしいもの、お金に変えられないかけがえのないもの、本当に大切なものを

後世に伝えていくことを。

田があれば田に悩み
2021.1.23|法話・感話

 

無量寿経の中には私達にも分かりやすいように様々なことが

説かれています。例えば次のような言葉があります。

 

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田があれば 田に悩み、家があれば 家に悩む。

牛馬などの家畜や、金銭・財産・衣食・家財道具

さては使用人にいたるまで、

あればあるにつけて 憂いはつきない。

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なるほどと思いますね。

長いあいだ畑仕事をされてこられた婆さんが、「草取りが大変なんじゃ、

ほれ見てみ、腰がこんなに曲がってしもうた」「腰が痛い、膝が痛い」

「あんな広い畑はいらんのんじゃ」と。

ところが、畑を持たない人にとっては「なに贅沢ゆうとる、羨ましいのう」

「野菜植えたり花咲かせたり、柿の実もいだり」「いざとなって売ったら

大金持ちや」と。

 

金銭・財産・衣食・家財道具、有ればあったで、相続ともなれば仲の良

かった兄弟で喧嘩沙汰になったり、こんなことやったら無かった方が良

かったという話はよく聞く話です。

 

無ければ ないで、また それらをほしいと思い込むのが人間です。たまたま、

ひとつが得られると、他のひとつが欠けてしまい、あれば あったでまた又

あれがない というありさまですから、結果すべてを取りそろえないと気が

済まんようになる。人間とはほとほと厄介な生き物です。

共命鳥の話

阿弥陀経に説かれている浄土には六種の鳥が描かれていて、

それぞれ仏様のはたらきを表していると言います。その中に共命(ぐみょう)の鳥がいます。

お寺の内陣や家庭の内仏の彫物にも見かけることもありますが、

特徴は一つの胴体に二つの頭という浄土の空に舞う架空の鳥です。

 

色々な説がある中で、浄土に生まれるまえの前世で二つの頭はとても仲が悪かったと

言われています。

片方の頭がこちらに行こうと言っても、もう一方の頭はいやこっちに行きたいと。

食べたいものも正反対。もっと遊びたいと言っても、片方は早く帰りたいという。

身体が別々の兄弟であれば好きなようにできますが、身体が一つですから

いつも喧嘩になってしまいます。

 

やがて喧嘩が高じて頭にきた片方の頭が、もう一方の頭に毒の実を食べさせたのです。

ところが身はひとつ、自分にまで毒がまわりはじめて両方とも命を落とす羽目になったのです。

ただ、命を落とす寸前、毒を食べさせた頭が命の大切さにはたと気付いて懺悔したと言います。

 

「今まで喧嘩ばかりしてきたものの、何とか元気に過ごせたのもあなたがいてくれたからだった」

「私の命は二人の身体の上にあったのだ」と。

 

私たちの世界でもよくある話ですね。

子どもの時は仲良しで人気絶大だった兄弟も勝負に主張が対立して仲違い、

結局、全てを失ったこともありました。

生前、喧嘩ばかりしていた爺ちゃん婆ちゃんが、一方が亡くなったとたん、

その大切さに気づいて涙することもよく聞く話です。

 

決して人ごとではありません。わたくしごとなのです。

良いこと悪いことと一言で片付けないで、全てを仏さまの説法として受け止めたいものです。

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