法話・感話

本当のご利益
2021.10.19|法話・感話

 

親鸞さんの生きた平安末期から鎌倉時代、流行り病に当然ワクチンはないし、特効薬もありませんでした。ただ、祈る時代の疫病だったから人は当然次のように言うはずです。「ぼんさん、どうにもならんのか」「こういう事には力にならんのか」それは現代でも同じ、東日本大震災でも言われたことです。

 

しかし親鸞さんの文章には「疫病退散のまじない」は無いのです。お釈迦様もそうでなかった「病気にならない法」は説かなかった。「不老長寿の法」「死なない法」「死者を甦えさせる法」等々が期待された時代ですが一切説きませんでした。

ときに「仏教ってご利益が無いんですね」と言われることもある。本当のご利益とは何かを尋ね極めたのが親鸞さんであり、お釈迦様なのです。

 

私たちは目の前の都合の悪い事を取り除けが「助かった」と言う。あれば、問題はまた起こる。そしてまた取り除いてもらわないといけない。それは、ずっと問題から逃げ続ける生き方になるではないか。

様々な事が起る中で、逆境であっても順境であっても生きていける。たとえ失敗しても、上手くいかなくても、病気になっても強く生き抜ける。極端な話が、死んでもあたりまえと頷けるたくましい生き方が本来の念仏なのだと。

報恩講執行2021

 

 

101617日との両日、報恩講のお勤めをしました。

 

16日は暖かい快晴で、夜に前線通過の雨風、17日には雨上がりの快晴というコロコロかわる秋の天気でしたが運良く皆さんの参詣は足下が濡れることはなく良い天気に恵まれました。

新型コロナ感染が急激に減少して、少しはホッとされたのか、ご参詣も普段の賑わいに戻ってきました。マスクを外さず、手指消毒し体温を測るなど感染対策をして、ご講師の先生には不便ながらビニール越しのお話しをお願いしました。

 

勤行:   正信偈 和讃:  五十六億七千万

法話:   正行寺前住職 當麻秀圓師

講題: 「聖人一流の御勧化のおもむきは」

 

たくさんの御文の中でも特に有名で簡潔なお言葉から、親鸞聖人の特に大切にされたお念仏の心を分かりやすくお話しいただきました。

「吊るし柿」は元々は「渋柿」、「渋」を消したり捨てたりせず渋があるまま、太陽に光に照らされて甘く転換していく。それは煩悩を消し去れない私たち凡夫にいただく弥陀の本願ではないかと。

今年も彼岸花が咲きました。

 

 

真っ赤な彼岸花が見頃です。

 

暑さも一区切りで朝夕の風が秋を感じさせる頃になると不思議な程、きっちりと咲きだします。

気温が下がった頃という感じがしますが、昼と夜の日照時間によって開花するとも言われます。

 

また種を作らず、球根で増えるのが特徴で、これは誰かが植えたということです。毎年同じ

ところに咲続けていて、多分先代が植えたのだと勝手に思っています。

 

「そろそろお彼岸やぞ、本堂の準備できてるか」と、だれかの声が聞こえるようです。

 

 

◎彼岸花 (別名・曼珠沙華)

彼岸花を「曼珠沙華」(まんじゅしゃげ)と呼ぶのは仏教からきたともいわれ、お経にはお釈迦様

が法華経を説きおわったあと、結跏趺坐され瞑想三昧の境地に入られた時、天より曼陀羅華・

曼珠沙華が降り注ぎ、それが仏の上や諸々の大衆に散らばり、仏の世界は六方に震動したと

表現されています。

 

・曼珠沙華・・四華の一つで、法華経が説かれる際の瑞兆として天から降り、柔軟花赤団華

    とも漢訳され、赤い花とされ、見る者の固い心を柔軟にするともいう。(岩波仏教辞典)

紙芝居「願立寺の山門」完成!

 

紙芝居「願立寺の山門」〜瓦の紋からのメッセージ〜 が完成しました。

 

住職が伝え聞いた山門の由来を、いつか何かの形にしておきたいと思っていましたが、絵本制作をコーディネートされている「中川たかこ」さんと絵本作家の「やすいさなえ」さんのお陰で立派な「紙芝居」にしていただきました!

 

先日、はるばる寺までお越しになり直接「納品手渡し式」を行いました。

その時の様子(動画)です。ご覧ください。

 

住職と絵本作家やすいさなえさん(新型コロナの時期でマスク姿です)

インタビュー:中川たかこさん

 

https://www.youtube.com/watch?v=yv-wReHz7ho

 

 

ストーリー

当院の前を通りかかって山門の瓦の紋に興味を持たれたハイカーのおたずねから始まります。江戸末期の混乱期に、困窮した民衆のために立ち上がった大塩平八郎の話題や山門自体が今は無くなった歴史的な建物からの移築門であったりなど、お寺のペットだったミニチュアダックスをモデルにし「小坊主がんちゃん」と住職のかけ合いの形で謎解きが展開していきます。

身近な自然に

バラン一色 (盂蘭盆会)

 

身近な風景や自然にほっとしたことはありませんか?

 

若い頃、バリバリ働いて仕事や趣味、家族と過ごしたり友人と遊んだり、地域の役どころなど、

様々なことに追われて生きてきた私たちです。いい歳になって、ふと立ち止まる頃、日々の

暮らしの中で、「あれ?何のために生きているんやろうか」と思ってしまうことがあります。

「そんな事、考えるだけ無駄や、美味しいもん食べて元気に暮らしていたら良いこともあるやろ」

と気楽に考えたりしますが、でもしばらくすると、やっぱり「何のために?」との思いが

もたげて来るものです。

テレビを見て気晴らしをしたりネットで解決法を探すのの一つですが、身の回りの何気ない

自然に目を向けてみることをお勧めしています。

 

住職の星好きもそんなところから始まっています。最近のデジタル化でかなりマニアックな

趣味のように見えますが、この銀河まで何万光年とか考えてみると大きな地球も仁丹の一粒に

なってしまいます。自然の大きな恵みを受けてこの世界に生きているのですから、

少々のことはそれを感じることで見え方が変わってくるものです。

ゆずり葉の詩
2021.5.9|法話・感話

ゆずり葉   河井酔茗

 

子供たちよ。

これはゆずり葉の木です。

このゆずり葉は 新しい葉が出来ると入り代わって

古い葉が落ちてしまうのです。

 

こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも

新しい葉が出来ると無造作に落ちる

新しい葉にいのちをゆずって――。

 

子供たちよ

お前たちは何をほしがらないでも

すべてのものがお前たちにゆずられるのです

太陽のめぐるかぎり ゆずられるものは絶えません。

 

かがやける大都会も

そっくりお前たちがゆずり受けるのです。

読みきれないほどの書物も

幸福なる子供たちよ

お前たちの手はまだ小さいけれど――。

 

世のお父さん、お母さんたちは 何一つ持ってゆかない。

みんなお前たちにゆずってゆくために

いのちあるもの、よいもの、美しいものを、

一生懸命に造っています。

 

今、お前たちは気が付かないけれど

ひとりでにいのちは延びる。

鳥のようにうたい、花のように笑っている間に 気が付いてきます。

 

そしたら子供たちよ。

もう一度ゆずり葉の木の下に立って

ゆずり葉を見るときが来るでしょう。

 

********

 

療養中の高齢になられた先輩から手紙をいただきました。

その中にこの詩「ゆずりは」河井醉茗、が紹介されていました。

はっとしました。

 

この詩は住職が小学校で子ども達を過ごしていたときに、教材として扱った記憶が甦ったのです。

ただ、情け無いことに詩のことはすっかり忘れていました。確か六年生の卒業を前にした頃の

国語の題材でした。黒板に書いて段落を区切り、ことばの意味を解き・・・子ども達から感想を

聞き・・卒業を感動的に向かえるには・・なんて授業成立に懸命に取り組んでいたことだったのか

と思います。

 

今改めてこの詩を読んでみると、非常に感じるところがあります。

人生、歳を重ねてやっとという想いでした。

 

現代を生きる大人に、「大切なものを作り、すべて譲っていく」という心を持って暮らしている人

がどれだけいるのでしょうか。もちろん私も含め。

 

科学万能、便利さの追求は決して間違ってはいません。世の中をきれいに清潔にし生活し易く

しました。しかし、もしも行き着くところが、お金がすべて、勝ったものがすべてと言うような

世の中を後に残すなら、大変な間違いを犯しているのではないか、そんな気がするのです。

 

美しいもの、素晴らしいもの、お金に変えられないかけがえのないもの、本当に大切なものを

後世に伝えていくことを。

田があれば田に悩み
2021.1.23|法話・感話

 

無量寿経の中には私達にも分かりやすいように様々なことが

説かれています。例えば次のような言葉があります。

 

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田があれば 田に悩み、家があれば 家に悩む。

牛馬などの家畜や、金銭・財産・衣食・家財道具

さては使用人にいたるまで、

あればあるにつけて 憂いはつきない。

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なるほどと思いますね。

長いあいだ畑仕事をされてこられた婆さんが、「草取りが大変なんじゃ、

ほれ見てみ、腰がこんなに曲がってしもうた」「腰が痛い、膝が痛い」

「あんな広い畑はいらんのんじゃ」と。

ところが、畑を持たない人にとっては「なに贅沢ゆうとる、羨ましいのう」

「野菜植えたり花咲かせたり、柿の実もいだり」「いざとなって売ったら

大金持ちや」と。

 

金銭・財産・衣食・家財道具、有ればあったで、相続ともなれば仲の良

かった兄弟で喧嘩沙汰になったり、こんなことやったら無かった方が良

かったという話はよく聞く話です。

 

無ければ ないで、また それらをほしいと思い込むのが人間です。たまたま、

ひとつが得られると、他のひとつが欠けてしまい、あれば あったでまた又

あれがない というありさまですから、結果すべてを取りそろえないと気が

済まんようになる。人間とはほとほと厄介な生き物です。

共命鳥の話

阿弥陀経に説かれている浄土には六種の鳥が描かれていて、

それぞれ仏様のはたらきを表していると言います。その中に共命(ぐみょう)の鳥がいます。

お寺の内陣や家庭の内仏の彫物にも見かけることもありますが、

特徴は一つの胴体に二つの頭という浄土の空に舞う架空の鳥です。

 

色々な説がある中で、浄土に生まれるまえの前世で二つの頭はとても仲が悪かったと

言われています。

片方の頭がこちらに行こうと言っても、もう一方の頭はいやこっちに行きたいと。

食べたいものも正反対。もっと遊びたいと言っても、片方は早く帰りたいという。

身体が別々の兄弟であれば好きなようにできますが、身体が一つですから

いつも喧嘩になってしまいます。

 

やがて喧嘩が高じて頭にきた片方の頭が、もう一方の頭に毒の実を食べさせたのです。

ところが身はひとつ、自分にまで毒がまわりはじめて両方とも命を落とす羽目になったのです。

ただ、命を落とす寸前、毒を食べさせた頭が命の大切さにはたと気付いて懺悔したと言います。

 

「今まで喧嘩ばかりしてきたものの、何とか元気に過ごせたのもあなたがいてくれたからだった」

「私の命は二人の身体の上にあったのだ」と。

 

私たちの世界でもよくある話ですね。

子どもの時は仲良しで人気絶大だった兄弟も勝負に主張が対立して仲違い、

結局、全てを失ったこともありました。

生前、喧嘩ばかりしていた爺ちゃん婆ちゃんが、一方が亡くなったとたん、

その大切さに気づいて涙することもよく聞く話です。

 

決して人ごとではありません。わたくしごとなのです。

良いこと悪いことと一言で片付けないで、全てを仏さまの説法として受け止めたいものです。

お風呂のはなし

 

お参りでお風呂の話になりました

今は便利になりましたけど

昔のお風呂は嬉しいもんやった

 

風呂みたいなもん、一般のうちにはありまへん

母屋のお風呂を時々貰いにいきまんねん

水も井戸から汲んだりして貴重なもんやさかい

2~30センチぐらいしかないときもあった

夏は行水が当たり前ですわ

 

おっちゃんが、

「今日はお湯が仰山あるからゆっくり入っていきや」

と声を掛けてくれる

「お先に貰います」

「加減どうや」「薪一本足しとくで」

「ええ湯です」

「お先に戴きました。おおきに」

「またはいりにきいや」

 

これがいつものお風呂もらいの夕べでした。

けど、この頃の風呂はボタン一つ押したら全自動

 

ピーン

「お湯はりをします」

・・・・

「まもなくお風呂がわきます」

暫くすると 

「お風呂が湧きました」と機械の声

 

焚きすぎもなく、ぬるくもなく、適温です。

お湯の量も測ったみたいにキッチリとしてくれまっけど

 

なんや淋しまんな、ほんまに。

しっかり婆さんボケません

月一度の月忌参りで、いつも楽しくお話しします。

お婆さん、時には誰とも話しをしない日もあるそうで、

私とのお話を待っておられるぐらいです。

 

しっかりお婆さんは良く片付いた簡素な住まいにひとり暮らしです。

お爺さんは既に逝かれて、朝夕お内仏に手を合わせる毎日。

息子さんらは既に家庭を持ち、独立して別に生活。

何にも文句も言わず、ニコニコ暮らしています。

 

この方の特徴は

愉快に過ごされ、何事も楽しむ精神をお持ち。

毎日の生活に変わらないルーチンがある。

寝る前に日記を書き、一日の出来事を思い出す。

テレビも見るが、文庫本を何冊も読まれる。

中年期に大きなご病気もあったが今は治った。

耳が良く聞こえ、目もよく見える。

買い物は息子や嫁にして貰うが、食事、そうじ、洗濯は自立。

朝夕の声にだしての正信偈お勤め。

 

既に超高齢の域、五感をしっかり使い居場所のある

この婆さんはボケるはずがありません。

蝉の羽化

撮影:坊守

 

境内の木に蝉が羽化をして抜け殻に止まっているところを見つけました。

多分、昨夜暗いうちに地面に穴を開けこの木に登ってきたのでしょう。

蝉の幼虫は土のなかで6年過ごしてやっと地表に出てくると言います。

そう言えば、早朝からシャンシャン・・・と蝉の合唱が聞こえ始めました。

長く続いた梅雨もそろそろ明ける頃です。

 

惠蛄(けいこ)春秋を識らず

       伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節を知らんや

 

曇鸞大師

 

せみ(ツクツクボウシ)は春や秋を知らない。

この虫がどうして夏を知っていることがあるだろうか

夏だけ知っていることは、本当の夏を知らないのである

 

ほうき星の出現に想う

夕空に見えているネオワイズ彗星

 

古来、ほうき星の出現は流星雨や皆既日食などと同じように、自然災害や疫病、戦争、

王の死や国の滅亡といった出来事を予言する凶兆現象としてとらえられてきたこと

もあると記録に残っています。

「彗星のように現れ彗星のように去っていく」などの言葉があるように平生の星の

動きとか惑星、月の定まった現象と違って、音もなく天空に現れ神秘的な輝きのなか

長い尾をひき、やがて消えてなくなる現象は、まだ科学の未発達の時代に上記のよう

な凶兆を予言する現象とみられても不自然ではなかったのです。

 

今、ネオワイズ彗星が現れて同様に世間の凶兆を眺めてみると、なるほど確かに

あるわあるわというところです。新型コロナ禍で世の中は激変、志村けんさんが

急死されると雰囲気が一気に緊張し、世の中は長期の自粛に入って経済がどんどん

疲弊、たくさんの店、会社が倒産。少し好転し始めたころに梅雨の集中豪雨、

「線状降水帯」という気象用語が飛び交い、九州をはじめ多くの街が水害のドロの

海に浸かってしまいました。「泣きっ面にハチ」とはこのことです。

 

冷静によく考えてみましょう。科学がこれだけ進んだこの時代にこれをネオワイズ

彗星のせいにするほど我々は愚かでないはずです。でもどこかであれのせい、これ

のせい、挙句はてには彗星のせいにしている私たちがいるような気がします。

自分の都合の悪いことはつい人のせい、あいつのせい、コロナも大雨洪水も彗星の

せいにしていませんか。「分かっちゃいるけどやめられねー」仏法の大きなテーマ

です。

 

集中豪雨はこのところ毎年どこかで起こっています。「50年に一度の災害」「命を

守る行動を」と度々報道されますが、考えてみれば全国に50箇所もあればどこかで

毎年起こっていることになります。大津波、大地震、巨大台風、火山噴火、・・・

結局、大きな彗星が23年ぶりにあらわれたから災害が起こったのではなく、世の中

はいつも災害や戦争が起こっていたということですよね。

 

自然災害、日本列島では当たり前のことだった。人の気持ちとして「何かのせいに

しておきたい」悪者をつくると安心する精神構造という単純な事でした。

災害が多い分、日本列島には春夏秋冬の鮮やかな四季があり温暖で過ごしやすく、

美しい水のながれる川があります。火山が列島に繋がり、たまに噴火して怖い思い

もしますがおかげで風光明媚、身体を癒やす温泉が豊富です。

 

人間に都合の悪いことだけでせっかく5000年ぶりに帰ってきた彗星を悪者にしては

これほど可哀想な事はないのです。

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