法話・感話

生老病死 ~お釈迦さまの教え~
2026.3.13|法話・感話

八尾別院大信寺 梅林

生老病死 ~お釈迦さまの教え~

 「生老病死」について、お釈迦さまの話を通して考えてみましょう。お釈迦さまは今から二千五百年ほど前、インドの小さな国の王子としてお生まれになり、お名前をシッダールタと申します。

 

 何不自由ない生活をされていました。お住まいのお城の中には悲しいもの、苦しいものを見せないようにしていたと言われています。ところがある日、お城の外に出られたとき、四人の方々の姿に出会われました。

 一人目は老人、歳を取り身体が思うように動かなくなっていく姿でした。二人目は病人、病気によって顔色も悪く苦しんでいる姿です。三人目は死人、人の命の終わるという事実でした。四人目は求道者の姿。これを「生老病死」と申します。

人は生まれた以上必ず老い、病み、そして死んでいく。その現実を見て、お釈迦さまは大きな衝撃を受けられたといいます。「これは私だけの問題ではない。全ての人が抱えている苦しみではないか」そう思われて二十九才の時、城を出て出家し求道者の道を歩まれたのです。

 

 さて、この問題はお釈迦さまの時代だけの話ではありません。私たちも同じです。若い時にはあまり考えないかもしれません。しかし、歳を重ね、体が思うように動かなくなったり、病院に通う事が増えたり、身近な方の往生に出会ったりして、その中でわたしたちはだんだんと「生老病死」の現実に出会っていきます。けれども私たちは、それを見ないようにして生きています。「まだ大丈夫」「自分はまだ先だ」そう思いながら日暮らしをしています。しかし、仏さまはその私たちに向かって「思い通りにならない命をどう生きますか?」と問いかけてくださっているのです。

 

 親鸞さんの有名な和歌に「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐が吹かぬものかは」があります。これは、明日も当然あると思っているのが、夜中に嵐が吹いて桜が散ってしまうかもしれない。という意味です。つまり、命というものは思い通りにならないものだということです。私たちは明日もある、来年もまたあると思って生きています。しかし、本当のことを言えば、命はいつ終わるか分からないものなのです。だからと言って仏教は「怖がりなさい」と言っているのではありません。そうでなく、「そのような私をこそ、決して見捨てない仏のはたらきがある」ということを教えて下さっているのです。

 阿弥陀さんは「生老病死」の苦しみを抱えて生きるあなたこそ、そのまま必ず救うと誓われました。その呼び声が「南無阿弥陀仏」、お念仏です。親鸞さんは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とも言われました。これは、私たちが立派な人間になるから救われるのではないのです。弱いまま迷いのままに抱きとってくださる仏さまの願いがあるということです。

 生まれた以上、老いもします、病気にもなります、そしていずれ死も迎えます。しかし、その人生を生きる私を、決して一人にはしない仏の願いがあるのです。その事を聞かせて戴くのが私たち真宗の教えなのです。

お寺で医学のおはなし「今を生きるヒント」開催

27日は「お寺で医学」と題して、田井中の安傳寺住職の坂田進師より身体や健康の

お話しを戴きました。坂田住職は生理学を研究され医大で教えておられる医学者で

僧侶との二刀流。難しい話になりがちな医学話を優しく丁寧に話してくださいました。

皆さん健康にはいっぱい思いがあるようで、話し終わりの質問タイムには次々と

溢れるように問いが時間まで続きました。

お話しによると、何でも色々な食材をしっかり食べて、高齢になれば痩せているより

少し太り気味がよく、加えて出来るなら適度な運動をする事だそうです。

自転車より歩く事が大切。太ももの筋肉を毎日少しずつ鍛えましょう。

朝夕に声に出してのお経のお勤めは肺をしっかり使うので身体や頭にもとても良いそうです。

生き生きと過ごすコツをたくさん教えていただきました。(ご参加33)

🔹優しくお話しなさる坂田進先生

🔹健康の話、皆さん興味深々でした。

◎凄いものがいっぱい、だけど?
2026.1.6|法話・感話

◎凄いものがいっぱい、だけど?

 皆さんのまわりには、たくさんの「凄いもの」「便利なもの」が溢れています。

ボタン一つで、ご飯が炊けたり、チン1分で美味しいおかずができたり、お風呂も知らん間に沸きます。この560年で汽車が新幹線になり、自動車が走り、飛行機も当たり前のように利用できます。近頃はテレビやゲーム、AI、ロボット、そしてスマホが凄い。更に病院の医療設備もです。たいていの病気は治してくれます。日本人の平均年齢は80歳をゆうに越えているのです。

 人間は、とても頭が良いらしく、いろいろなことを考え、作り出しました。

AIはとても賢い。でもむずかしい計算をすぐにしたり、正しい答えを見つけたりできますが、AIに「やさしい気持ち」や「かなしい気持ち」があるでしょうか。

AIは「正しい・正しくない」は分かっても、友だちがつらそうな気持ちまでは分かりません。もし人間が、「賢く早い人がえらい」「役に立つ人だけが大事」と考えるようになったら、どうなるでしょう。便利なものも、使う人の心しだいで、人をきずつけてしまうことがあります。

 病院は病気を治して、命を助けてくれます。痛みもとってくれます。これは、とても大切なことです。でも、病院の先生でも分からないことがあります。

それは、「どうして生きているの?」「元気じゃないと、だめなの?」ということです。本来、元気なときも、病気のときも、命の大切さは変わらないはずです。

 便利な世の中になりましたが反面、ゴミが増えて、森がへって、熊まで出てくるようになりました。地球が苦しくなってきたように見えます。それは、人間が何も知らなかったからでしょうか?ちがいますね。知っていても、やめられなかったのです。

「もっとべんりに」「もっと安く」「もっとたくさん」・・・そう思う気持ちを、人間は止めるのが苦手です。

 仏教では、「悪い人だから」ではなく、止められない心をもっていることを、人間の弱さとして見ます。仏教のことばで、「煩悩」(ぼんのう)といいます。

 仏さまが教えてくれることは「ちゃんとできる人」「早くできる人」「かしこい人」だけが大切にされるとは考えません。それより「まちがえる人」「遅い人」「うまくできない人」「弱い人」そんな私たちそのままを、「それでいいよ」と大事にしてくださるのが、仏さまの世界です。

 人間のちからには、できることと、できないことがあります。それに気づいたとき、人はやさしくなれるのかもしれません。

 AIも、病院も、科学も、人を助けるための大切な道具です。でも、「人の心をあたためること」「命をそのまま大事にすること」それは、数字や機械だけではできません。

「自分は偉くはないけれど、大切な命の存在なんだ」そう聞かせてくれるのが、仏さまの教えなのです。

※画像はネットフリ━素材より

 

 

青森東方地震に想う  〜火宅の喩えより〜
2025.12.12|法話・感話

青森東方地震に想う 〜火宅の喩えより〜

二年前のお正月、石川県奥能登の大震災があり津波も襲って多くの方々がお亡くなりになりました。まだ被災状況が続いており、復旧復興にはほど遠いと聞きます。先日、十二月八日夜、こんどは青森県の東方でまた大きな地震があったのです。

大地が揺れたあの瞬間、私たちは、日頃は気づかない「いのちのはかなさ」と「自然の大きな力」を改めてたびたびに突きつけられます。

 

歎異抄の後序に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、誠あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とあります。

「火宅」とは、火の家と書きます。外から見れば何事もなく安穏としているように見えても、その内側は、いつ炎に包まれてもおかしくない、常に無常の風が吹き荒れる世界である、という意味です。

人は、思い描いた通りに生きられる強さを持っているようでいて、実は、大自然の前や、自身の運命の前に、どうすることもできない「弱さ」を抱えています。

 

その弱さを、責めず、恥じず、避けず、「そのままのあなたを救わずにはおれない」と呼び続ける大いなる願いを、親鸞さんは阿弥陀の名号「お念仏」として受け取られました。「最後のさいごはお念仏しか私たちには無いのだよ」と。

いやおうなしに突然やってくる地震は私たちに、「今日のいのちが当たり前ではない」という厳しい事実を教えます。しかし同時に、人は支え合い、寄り添い合うことで、また歩き出せる存在であるという不思議な力も、災いの只中に明らかにしてくれます。

 

家族を思うこころ。隣人に手を差し伸べようとするこころ。それは、私たちの中に、もともと息づいている「いのちの願い」があらわれています。

どうか、恐れや不安を押し込めようとせず、そのままの心を抱えたまま、「なんまんだぶつ」とお念仏を申してください。

揺らぐ世界の中で揺るがぬ願いに、身をゆだねながら、今日という一日を、共に歩んでまいりましょう。

寺報「東光」2026年1月号より

画像:ウェザーニュースHPより

人と熊の命  〜命をめぐる悲しみと願い〜

急いでやってきた羽曳野の秋

人と熊の命  ~命をめぐる悲しみと願い~

今年の秋、熊の出没が各地で相次ぎ、近くの地域でも不安の声が聞かれます。農作物の被害、人的な事故。その中で、やむを得ず熊を捕獲し、殺さざるを得ない現実もあります。そのたびに、私たちは「これは善いことなのか、悪いことなのか」と心が揺れます。

 

  親鸞さんは、『歎異抄』の中で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と仰っています。

この「悪人」とは、悪事を働く人のことではありません。むしろ、自分の無力さ、愚かさ、迷いを自覚する者のことです。「私は正しい」「自分は善人だ」と思い込んでいる心こそ、仏の目から見れば迷いなのです。善と悪を分けるのは人間の都合ですが、阿弥陀さまの慈悲の光は、善悪の分け隔てを超え、すべての命が包まれるということです。

 

山奥に熊がいて、村里に人がいます。どちらもこの地球という大自然の中に生きる存在です。けれども、私たちは田や家を作り、山を切り開き、熊たちの住む場所を狭めてきました。熊が人里に降りてくるのは、飢えや恐れからです。熊も生きようとしている。どんぐりを食べるのも人を襲うことも熊にとっては当り前。ただ、それだけのことなのです。

人の命を守るために、やむを得ず熊を殺すことがあります。それを「悪」と断ずることはできません。しかし、忘れてはならないのは、その行いの中にある悲しみです。「仕方ない」と言って終わりにしてしまえば、私たちは命の尊さを見失います。「どうかその熊の命が、無駄になりませんように」と手を合わせる心、それが仏の慈悲に通じる道だと思うのです。

 

本来、山に熊がいて村に人がいるのです。どちらもこの地のいのち。ところが今、人を守るために仕方なく熊が殺される。そのとき、阿弥陀仏の光は、熊にも人にも等しく注いでいるはずです。殺して当然と悲しまぬ心こそが、悲しい。熊の命も、人の命も、共に仏の懐、お浄土に帰るのです。

熊の被害は現実的な問題です。人を守るための行動は必要です。けれども、その中に「命への悲しみ」と「感謝の心」を失わないこと~それが、私たちが仏法を聴聞する身の置き所です。どうか、熊の命を奪うたびに、その命を悼み、感謝する心を忘れずに歩みたいものです。熊の命も、我が命も、同じ光の中にあるのです。             合掌

寺報東光2025.12月号より

ほうき星と一期一会
2025.10.25|法話・感話

🌠 ほうき星と一期一会

夕空にレモン彗星が微かに肉眼でも見えています。彗星(ほうき星)が見えるのはほんのこの数日間、宇宙の時間でいえば一瞬の光を今放っているのです。その光はわずかですぐにも消えてしまいますが、見た人の心にはいつまでも残ります。私たちのいのちや出会いも、それに似ています。

 

茶道の言葉に「一期一会」とあります。

「一生に一度の出会い」という意味です。今日あなたと出会ったこの瞬間は、二度と同じ形では訪れません。その一瞬を大切にする心が、真の礼節であり、慈しみの心です。

 

親鸞さんはこう言われました。

「本願を信ずる一念に、往生一定す。」

(本願を信じるその一念に、すでに救いが定まる)

つまり、いのちの長さや多さではなく、今この瞬間の「気づき」や「出会い」こそが、永遠につながるのだという教えです。

ほうき星のように短くても、その光が心に届けば、それは永遠のいのちのはたらきなのです。無常の世の中で、私たちは多くの別れを経験します。けれども親鸞さんの教えに出会えたこと、そしてこうして「今」語り合えることもまた、尊い「一期一会」です。

だからこそ、ほうき星のように儚くても、一瞬一瞬を光らせて生きたい。

その光が、誰かの闇を照らすかもしれません。

撮影:2025年10月23日夕べ  和田山にて 住職

報恩講2025.お勤め致しました。

10月16〜17日報恩講のお勤めを致しました。

法話をされる、光徳寺住職松谷泰明師

夜の座は御絵伝三幅として、満誓寺住職竹林真悟師が絵解き法話です。

赤ちゃんの泣き声
2025.9.22|法話・感話

赤ちゃんの泣き声

ご門徒さんの月参りで色々世間話をします。よく、月日の流れの話になり、「もうお彼岸やね、この間にお盆をしたとこやのに、ゆうてる間にクリスマスたら、年の暮れたら、そしたらすぐお正月やろ」必ず後に付く言葉は「一年あっという間や、また一つ歳とらなあかん」「歳とったらあかんな」という事です。

 私としては返事に困り、坊主として「歳とって楽しいわ」とか「この歳になってやっと世間が見えてきましたわ」「本当のことに気づけて良かったわ」「今が一番ええわ」・・などの言葉を期待してしまうのですが如何せんそこで話が終わってしまいます。

 

 ある時、あるご門徒のご自宅で法事を勤める機会がありました。家族と親戚の方が寄られてお勤めが進んできたとき、若いお嫁さんが赤ちゃんを抱いておられて、一生懸命にあやしておられました。法事の雰囲気を壊してはいけないと思われたのか、それでもやっぱり「えーん、えーん」と泣きはじめたのです。でも周りの大人の方々は暖かい目で見ておられホッとしました。泣いていたら、「なんで泣いているのかな、お腹がへったのかな、おしっこがでたのかな?」と、喋れない赤ちゃんの心根を想像します。赤ちゃんはただ泣いているだけなのに周りにはたらきかけるものをしっかり持っているのです。つまり、はたらきには役に立つとかたたないとかは関係ないということです。赤ちゃんは世話をかけるばかりです。何かの役にたたないのかもしれません。でも役に立つ、たたないに関係なく、目にはみえなくてもそれぞれの関係のなかで「はたらき合うものがある」ことを感じさせて頂きました。

 

 「歳とったらあかんな」というのは、歳がいくと身体の調子も悪くなる、膝や腰も痛くなって動きにくくなる。物忘れもするようになるし目も霞んでくる。人さまのお役にたたんようになってアカンなあ、という意味だと思います。しかしこの赤ちゃんのように、そこに居るだけで目に見えないはたらきがあるように思えるのです。

ただ、そこに居るだけで人にはおおきな命の意味があるのです。

生還せる特務曹長「鷲 康勝」

願立寺の元住職 鷲 康勝(1873〜1951)(現住職の祖父)の日露戦争従軍時の笑うに笑えないエピソードを坪内祐三著「探訪記者・松崎天民」より抜書きしたもので、明治当時の世情や河内太田の村人の様子が記事となっている。

考えてみれば、やはり戦争は様々に真実を遠ざけるようである。

(誌面の都合で一部現代文へ書き換え、省略等あり、ご容赦ください)

この話は8月15日の、盂蘭盆会・戦没者追弔会に紹介する予定。

最も奇抜であったのは、金州丸事件の特務曹長、鷲康勝氏の事件であった。大阪毎日(以後大毎)では行方不明と報道したが大阪朝日(以後大朝)では木崎好尚氏が編集して「壮烈なる最期を遂げたる」という事に確定して書いたのであった。河内在の鷲氏の家郷でも、行方不明と報じた大毎の態度を煮え切らぬ事に思って、大朝の「壮烈な最期」を当然のように思い、信じてしまうのが当時の軍国美談的心持なのであった。

一か二か、甲か乙か、編集局に達した報のどちらとも判明しないものを何れかに片付けたい編集記者の心理は一種独特で、特に一世を挙げて戦争の犠牲者を謳歌する国中、人々の心情に充ち満ちていた折柄であって「行方不明」はまどろかしさがあって木崎氏の第六感が「鷲特務曹長は、割腹してでも死んでいる」と力強く囁いたからであろう。

 そういう編集部の雰囲気に命じられ天民は、鷲特務曹長の出身地の河内に出張し、昼夜を分かたず取材を重ね「鷲特務曹長の家郷を訪れる」という三回連載記事を執筆し、その「壮烈な死」をほめたたえ好評を博したという。

鷲氏の家郷では一家一門の面目ばかりでなく、一村一郡の名誉この上なし、とあってやがて盛大なる村葬の儀が執行され、西村天囚翁の荘厳端麗な弔辞は木崎好尚氏によって仏前に献げられたりした。

 これと対照的な態度だったのが大朝のライバル大毎であって、その消息に関して名誉の戦死説をとらず、ごくあっさりと葬儀は昨日・・・との極く簡単に扱った。葬場でも村人達は大毎の態度を不快がり、大朝のの確定的勇士扱いに随喜しているように見えた。

 それで終われば何もなかったようなのであるが、盛大な村葬を営まれた鷲特務曹長が、なんと一年ほど経て、生きて家郷に還ってきたのであった。

死んだのでもなく行方不明でもなく捕虜となっていたのであるから事実が判らぬ以上は「行方不明」の大毎の勝利と言わなければならなかった。その罪滅ぼしのために天民は「生還せる鷲特務曹長」という記事を書かなければならなかった。そういう天民の取材に歌人の与謝野鉄幹を思い起させる風貌の鷲特務曹長がとても面目なさ相うにしているのが、かえって気の毒に思えたりした。上司の木崎氏は「大きな喜劇やないか。見当違いもこの位になると目覚ましうて良いやないか・・・」と身体を揺り上げて笑っていたが、当の天民は笑っても笑い切れない気持ちであった。

ところがこの誤報事件にはさらにそのあとががあったのだ。

この事件を自伝「人間秘話」(新作社)や中央公論「新聞記者懺悔録」等に記述したが次の引用文に目を通して頂きたい。

 当時大朝編集局の幹部では鷲特務曹長割腹の一件を半信半疑としていたが、兎に角死んだものとして報道していた。私如きは全く割腹を信じ込んでいたから、村葬の当日はフロックコートを着て太田村へ出張し降る雨の中を会葬しその勇士の死を弔った。その葬儀が又頗る珍なるもので、故人の妹が在学していた基督教のウイルミナ女学校からは女教師、生徒の一団が来て聖書を朗読し聖歌を唄い、祈祷した。真宗の南無阿弥陀仏に神官の祭文、知事代理の弔文、小学校生徒の唱歌と云う風で、随分賑やかなものであった。

肝心なのはこのあとである。私は悲哀の調子の充ちた葬儀の記事を書き木崎氏に渡すと「壮烈なる戦死を遂げし」はどうも疑問であると。「生死不明の噂ある・・・」として雨が降って物淋しかった等は書くまいと云うことであった。取捨は勝手にと答え机に置いたが翌日の大毎の記事とは大変な相違であった。私の記事は七十行が三十五行に削られしかも「生死不明の・・」とある。これを見た太田村の村民親友人は何と思ったであろう。果然その日の午後、村葬の委員たる友人二人が「松崎さんにお目にかかりたい」との権幕であった。

ただし、これは天民が不正確なジャーナリストであったことを意味しない。天民は独特の正確さを持っている。特務曹長の無事帰還を知った時に、「もしこれを新聞の材料にせぬのは嘘である。死んだと思われた事も捕虜になって帰還されたのも新聞の材料である。

日露戦当時、金州丸の航路と沈没地点

陸軍特務曹長 鷲 康勝 (願立寺元住職)

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