「出家発心のかたちを本とせず」 〜お彼岸に〜
2026.3.18|法話・感話

八尾別院のユキヤナギ 2026.3/17
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◎出家発心のかたちを本とせず 〜お彼岸に〜
お彼岸といえば「向う岸」と受け止めます。そこには迷いの多いこちらの世界から、こころ豊かな悟りの岸に渡るという意味が込められています。
けれども私たちは日々の生活の中で、忙しさに追われ、思い通りにならないことに腹をたてたり、後悔したりして中なか穏やかな心で過ごすことができないものです。「とても向う岸になんて夢の世界、渡れるはずもない」と感じるのが実際のところです。
そこで、親鸞さんは「出家発心のかたちを本とせず」と和讃に示されました。
もともと仏教の教えを成就するには、出家して厳しい修行をして仏に少しでも近づくことが大切だと考えられ教えられてきました。つまり、「こういう清浄なる姿にならなければならない」という「形」が重んじられてきたのです。しかし、親鸞さんはなんと「その形を本とはしない」といただかれたのです。
それは、あなたが「どのような立場であってもよい」「どのような暮らしの中であってもよい」ということなのです。お寺に入って修行ができる人だけでなく、家族を持ち、仕事に追われ、悩みながら生きている私たちこそが、そのまま救いの対象でなければならないことを示してくださったのです。
私たちはいつも「もっと立派にならなければ」「もっとちゃんとしていなければ」と思います。子ども達がいればそう教えます。学校でも社会に出ても同じです。そして、失敗すればできない自分を責めてしまいます。まじめであればあるほどです。けれどもそのように思う私の姿を、すでに分っておられて「そのままでいいんだ」「そのままで来てよいのだ」とはたらきかけて、くださっているのだと阿弥陀さんは教えるのです。
お彼岸は「向こう岸をめざして努力する日」とつい思われがちですが、浄土真宗では受け止め方が180度違います。私たちが努力して渡って行くというよりも、阿弥陀さんのはたらきによって、必ず浄土に導かれていく身であると気付かせていただくのが、お彼岸なのです。ですから、今ここで手を合わせ、念仏を申すとき、それは「がんばって渡ります!」という誓いではなく「すでにあなたを救う」とはらいてくださっている仏様の願いに静かにうなずかせていただく声(念仏)なのです。
忙しい日々の中で、自分のこと身の回りのことで精一杯になりがちな私たちに。「あなたはそのままで、決して見捨てられない存在である」ということに気づかせていただくのです。
このひと時、立派であろうとする心を少し休めて「このままでよかったんだ」と呼びかけてくださる仏の願いに耳をかたむけていただきたいと思います。









