法話・感話

第2回インド仏跡巡拝記①

 

第二回インド仏跡巡拝記①

今回は、2024年1月20~27日の日程。前回訪れることができなかった釈尊の涅槃の地クシナガラと誕生地として有名なルンビニーの地を巡拝してきました。参加者はご門徒や住職を含め13名の参加でした。

関空から香港で乗継し、インドのデリーに深夜到着。外に出ると薄ら寒く日本の晩秋から初冬の雰囲気で霧か煙霧が濃く、晴れているのに夜空には月がぼんやり見える状態でした。

翌日、デリーから東北部の地方都市パドマに移動。前回はここから南下して王舎城へ向かった場所ですが今回は北へバス移動、ガンジス河を渡りクシナガラへと向かいました。道中バスの車窓からのインドの風景はあふれるような単車と車の洪水、街の喧騒、人々の生活感満載のまさしく「これがインド」の一言で紹介されるインドが変わらずそこにありました。

特に今回訪れた地域はインドの地方都市でいわば田舎です。道路がすべて生活道路で、道沿いには粗末なレンガ作りトタン屋根の家が延々と続き、家の前では焚火で暖をとりながら牛や羊と一緒に子どもたちが屈託なく遊んでいました。都会では一握りの大富豪がピカピカの生活をする反面、8~9割の大多数の人々が地方で貧しい暮らしを強いられている世相は2500年前の釈尊の時代から変わっていないような印象を持ちました。

修正会って?
2023.12.18|法話・感話

 

「修正会」(しゅしょうえ)は新年に勤まる法要です。

一年の締め括り、そして新年初めての大切なお勤めです。願立寺では大晦日の深夜零時と元日朝十時に行います。大晦日の夜の十一時過ぎ、テレビでは紅白歌合戦も終わりに差し掛かった頃合いに、本堂に灯りと暖房を付けて準備をします。やがて歌合戦も終わり、ゆく年くる年の放送が始まる頃、門徒さんが本堂に集まって来られ、零時に皆さんと一緒に「正信偈」のお勤めが始まります。修正会は、正月を修めるという意味の他、正を修めるという意味もあります。正とは正すという事で、自分自身のことを改めて見つめ直すという事です。私たちは生活する中で様々な出会いを経て日々を送っています。そんな出会いの中で生まれた感動が今を生きる私たちの生き方に根差しています。私たち真宗門徒においても、法要や法話を通して頂いた感動が生活の中の大きな拠り所となっていると思います。

 

仏説無量寿経では釈尊の弟子阿難尊者の感動が語られる場面があります。阿難尊者は多聞第一と言われ、釈尊の教えを沢山聴いて来られた方ですが、なかなか悟りには至れなかった方でもあります。親鸞聖人は和讃に「尊者阿難座よりたち、世尊の威光を瞻仰し、生希有心とおどろかし、未曾見とどあやしみし」と語られておられます。この和讃は、ある日、阿難尊者が釈尊の姿を見ると、とても輝いておいでだった。その初めて見る不思議な姿に阿難尊者は驚き立ち上がった、という内容です。もちろん人間から光が発せられる事はありませんから、苦悩する阿難尊者が初めて本当に尊いものに出会うことが出来たという感動がここで語られているのです。

 

お寺のお勤めが終わった後、帰り際の門徒さんとお話ししていると冗談めかして「お寺の門を出たら聞いた話全部抜けてしまうんや」と語られる方がおられます。私も法話を頂いた後には、ああ良いお話しが聞けたなと思いつつ、一度普段の生活に戻ってしまえば、いつの間にか折角いただけた感動も何処かへ行ってしまいます。この和讃はそんな私へ投げかけられている様に思います。だからこそ、一年の節目、この修正会で我が身を見つめ直す事が大切なのだと思います。 (若院)

 

・大阪教区パンフ(知ってる?仏事あれこれ)掲載

 

阿弥陀さんって?
2023.10.26|法話・感話

阿弥陀如来はすべての人を救うという

 

仏教ではすべての人を大切なものとして受け止められていて、なかでも阿弥陀如来という仏さまは、人の良し悪し、善悪では差別されないとか。では正直言って阿弥陀如来は、例え極悪人や重罪を犯した人であっても救ってくれるのか疑問が生じるところです。実際に聖人の時代や亡きあと「悪人」を間違った解釈をして「罪を犯してもいいんだ」と泥棒や強盗などが増えて大きな社会問題にもなったらしい。

 

阿弥陀如来という仏さまは、「どんな人でも救いたい」という願いを持ち、「一度でも念仏を称えたらどんな人でも必ず救う」との誓いを立てられたと教えます。その救済の対象には限りがありません。どんな「悪人」でも救いたいという仏さまなのです。ここでいう悪人というのは、「悪を作ってしか生きていけない者」という聖人の解釈なのです。つまり悪人は誰かと言うと、私自身のこととなります。決して他の人のことを指す言葉ではないのです。

 

「念仏をとなえた人を必ず救う」という、阿弥陀如来ですが、そもそもなぜ、このような誓いを立てたのでしょうか。そんな気のいい仏さまがおられるのでしょうか。素朴な疑問です。

 

自分の力ではどうしても修行したり、良い行いを積み重ねたりすることができない人がいるから、このような誓いを立てられたのです。自分の力で悟れない人を救わずにいられないというのが、阿弥陀如来の心なのです。浄土真宗では、「悪を作るつもりが無くても、悪を犯さざるを得ないのが人間である」というのです。善をしようと思っていても、思うままに善ができないものも悪人ですね。私たちは日々、悪を作っている自覚はありません。しかし、何気なく生活をしている中で、気が付けば自然環境を破壊していたという事実があります。毎日、鳥や豚や牛や魚や、ありとあらゆる生物の命を頂いて生きているのです。そうしなければ生きていけないですし、時にはそれが当たり前となり感謝の心すら無くしているのが、私たちの実生活の姿です。

 

仏教では人間の存在を、深く見つめています。状況によって何をするか分からなかったり、悲しいことがあってもすぐに忘れてしまったりする私たちの在り方には、深い意味での悪が含まれているというのです。

 

 

報恩講 當麻秀圓先生の法話
2023.10.16|法話・感話

法話をされる當麻秀圓先生。

「まずお荘厳からきちんと始めましょうか」とお仏飯の正しいお供えの姿を示され、やがてじっくりと深い浄土真宗のこころを参詣の皆さんにお伝えになりました。

 

 

先生のレジュメ

衆生とともに
2023.8.15|法話・感話

タカサゴフヨウ(高砂芙蓉)

  ヤノネボンテンカ(矢の根梵天花)

  アオイ科 バボニア属、南米原産 H50cm200cm 、花期7月~10月 、常緑低木

 

 

衆生とともに

真宗の法話があるときにお話しのまえに唱和するのが「三帰依文」です。その中で三回「まさに願わくは衆生とともに」とあります。この「ともに」が大乗仏教のテーマなのです。「大乗」とは自分の力では到底さとりの世界に行けない者のために、仏さまは用意してくださった「大きな乗り物」ということです。

 

私たちは自分の力で往生することが出来ないので、仏さまが用意してくださった乗り物に乗せてお浄土に連れて行っていただく。

この「大乗」という大きな乗り物は一人乗りではないということであって、「ともに救われる」ということです。ですから、「ともに」ということがテーマの仏教が大乗仏教であるということです。

 

「ともに」に大事なことが二つあります。一つは選別・差別・排除をしないということです。「弥陀の本願には老少善悪のひとを選ばれず」という歎異抄の言葉は今まで何度も聞かれた事があるかと思いますが、とにかく「分けない」のです。都合が良いとか悪いとか、どっちが得か損かとか、そういう事で選ばないのです。つまり、条件を満たした人だけが救われると、そういうことではないのです。

 

もう一つは同じことのようですが、「本当の平等」ということです。我々は、どうしてもすぐどっちが上か下か、優か劣か、主か従かということが気になってしょうがない。いつも赤本のお勤めで唱和する御和讃でいえば「平等覚に帰命せよ」ということです。

 

人間は類人猿の仲間から何百万年もかけて進化し北京原人やネアンデルタール人とか色々進化して現代のヒトになったと言われていますが、そんな中で、実は一番強いのが生き残ったのではないのです。あるいは大脳が一番大きい、一番賢いのが生き残ったのではないというのです。そうでなく、弱い人を見捨てず、「ともに生き残ろう」としたグループが生き残ったのです。我々、このホモサピエンスという種だけがこの現代まで生き残ったのは、強かっただけ、賢かっただけでなく「ともに」を一番大事にしたからなのです。

 

そういうことが少しずつ分かってきました。ですからケアが必要な人や病気になった人が捨てられることをしなかった。怪我や病気や老化によって狩りすることが出来なくなった、農作業もできない、家の家事も出来なくなった、その人を皆で一緒に支えて、一緒に生きて行こうではないかと。これができなくなれば人間ではなくなるのです。        同朋大会・真城義麿師法話より

永代経法要2023

 

4月7日(金) 永代経法要が勤まりました。

勤行に続いてご法話は、遠慶寺住職大橋恵真師よりいただきました。

あいにくの雨模様の一日となり、昼の座、夜の座ともに皆さん傘をさしてのご参詣

有難うございました。

 

「あいにくの雨模様」と書きましたが、法話の始め「晴れただけでは人も植物も育ちません」との

言葉にガツンと一発やられました。・・・ その通りです。

 

 

ご法話テーマ 「 本願力にあいにぬれば むなしくすぐるひとぞなき 」

 

 

レジュメ

普遍の道しるべ
2023.3.19|法話・感話

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普遍の道しるべ

 

悲しさ嬉しさ

ちょうど卒業式の時期です。そしてやがて4月になれば入学式、春は別れと出会いの季節と言われます。仲の良かった友だちとの涙があるし、一方これからどうなるか不安ながら新しい友とのワクワクした出会いもあります。その時の印象として、どちらがという訳ではないものの、「別れは悲しくて、新しい出会いは嬉しいもの」と思ってしまうところがあるのではないでしょうか。

私たちは物事を自分から見える一方向でしか捉えることが出来ません。

「人との別れ」という出来事が、そこに「もう会えない」「悲しい」「寂しい」という感情をくっつけてしまうのが、私たち人間です。人はどこまでも自らの思い中心にしか生きていけないし、それが人間の性と言っても良いようです。その結果が、自らの思いで自分自身を苦しめる事につながるのです。それと共に「自分の考えが善で、自分と異なる人の考えは悪」のような勝手な判断をしてしまうのでしょう。

一方向からしか見ていないのに、全部見えていると思ってしまっているのが、私たちの偽ることのできない姿です。仏教ではそれを「我(自分の都合・はからい)にとらわれている」「我執(がしゅう)」と教えています。仏の教えの大事な一つ、専売特許です。

 

太子の言葉

 さて、親鸞聖人が「和国の教主」と讃えられ、日本に仏教を取り入れてくださった方が聖徳太子です。

聖徳太子はお亡くなりになる前「世間虚仮唯仏是信」「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)(ほとけ)   のみ是()れ真(しん)なり」という言葉を残されています。

「この世にある物事はすべて仮のものであり、仏の教えのみが真実である」 という意味です。

 

私たちの   物の見方は、自らの思いを中心とした一方向からのもので、それがそのまま真実と言えるようなものではありません。

 

真偽二面

例えば、2022年ロシアがウクライナに侵攻しました。私たちは西側の情報、見方でどうしてもウクライナが善、ロシアが悪の印象を持っていますが、ロシアにはロシア独特の考え方があるようで善悪一筋縄とはいけないのがこの世の現実のようです。しっかりと見極めないとなりません。

また「老い」という言葉があります。「老い」にある人は「辛いこと、情けないこと、目を背けたくなるもの」と、負の感情を持ちます。その一方で老いを「人生経験豊かで、物事がよく見え、分かり、人生を色濃く豊かにするもの」と良いイメージをつける方もいらっしゃるでしょう。どちらも「老い」という現象に「私の感情をつけて捉えている」に過ぎず、その感情に振り回されてしまいがちです。

 

諸行無常

仏教は「老い」ということを「諸行無常」つまり、この世のものは絶え間なく変化しているものだと教えています。

「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」とは、真実と思って見ているつもりでも、実は自分のはからいでしか物事や他者の気持ちを見ることができない私たちだからこそ、仏さまの教えを指針とせよという教えなのです。

 

○普遍の在り方

私たちは、自分の感情、他人の意見に振り回されていると、つい自分を見失いがちです。

そのような中、「普遍の在り方」を教えてくださる仏さまの教えほど、私たちの人生の道しるべとなるものはありません。

 

彼岸会2023

唯我独尊(ゆいがどくそん) ~本当の意味は~

モクレン (モクレンモクレン属に属する落葉低木の一種)

 

唯我独尊(ゆいがどくそん) ~本当の意味は~

 

私たちはいつも「六道」地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上といった六つの迷いの世界を生きています。お釈迦さまが誕生後すぐに七歩あゆまれたということは、その世界から一歩出られたということを意味します。

 

そして、「天上天下唯我独尊」とは、“私たち一人ひとりが他の誰とも代わることのできないものとして誕生し、尊い命を生きているのだ”ということを伝え下さったお釈迦さまからの大切なメッセージなのです。世間的には唯我独尊の誤った使い方や、理解をされていることもよく見受けられますので気を付けたいものです。

日々刻々

世の中は、日々刻々と移り変わっていきます。とにかく早いですね。同じとき、同じ事柄など何一つありません。諸行無常の世界といわれる所以です。

 

仏教ではものごとは全て縁によって起こり、縁によって滅していくのだと教えます。今此処に、縁によって成り立っている私も、私の心も瞬時に変化し続けているのです。

 

しかし、その変化し続ける縁を、そのまま事実と受け取ることほど難しいことはありません。人は煩悩を具足するがゆえに、意に添わなければ、怒り・腹立ち・嫉み・妬むという我が心の絵具で描いた地図の中で迷い続けるのです。そして結果は、他を傷つけ、時には我が身も傷つけ、帰り道を見失ってしまうのでしょう。

 

そんな私に如来は、彼岸の浄土を帰る場所と教え、念仏の一道を帰り道と与えてくださるのです。

出典参考:「いのちのことばⅡ」

 

 

お寺の鐘

もともとお寺の鐘は、法要の集会の合図として撞かれるとともに、時を知らせるためでもありました。時計が無かった時代に、時刻を知る一つの手段でもあったのです。特に夜明けと日没を知らせてくれるものとして、撞く時刻は夜明けと夕暮れ頃だったようです。畑仕事をしている人々が多かった時代には、欠かせない知らせだったのでしょう。現在の時刻ではおよそ朝夕六時頃となります。

 

真宗本廟(東本願寺)では朝のお勤め(晨朝)の合図として十一回撞かれています。また、報恩講ではお勤めの始まる一時間前にも撞かれます。参詣の皆さんにもうすぐお勤めが始まりますよとの声かけだった訳です。

 

大きさは様々ですが、「梵鐘」と呼ばれる大きなものは、境内にある鐘楼堂や鐘楼門に吊下げ、撞木という木製の太い棒で撞き鳴らします。

 

私たちの願立寺には梵鐘はありませんが境内の角に太鼓楼があって、大きな太鼓がその代わりをしております。秋の報恩講や春の永代経法要のお勤めの一時間前に、五つ・打上打ち下げ・三つのリズムで太鼓を打ちます。皆さんが着席された頃、勤行五分前に「喚鐘」を同じく五三のリズムで撞きます。喚鐘は梵鐘と比べると小ぶりな鐘ですが法要行事の始まり等を知らせる大切な鐘です。

 

梵鐘のないお寺もあります。それは第二次世界大戦時に出された「金属類回収令」の影響がありました。当時、軍需生産原料として必要な金属を集めるため、お寺の鐘や仏具をはじめ、家庭の鍋や釜にいたるまで供出されたと聞きます。また、昨今住宅密集地では大晦日の梵鐘の音も騒音とされ、苦情により昼に撞かれている所もあるようです。現代社会の生活事情が表れているようです。なんともはや。

※出典参考「仏教・仏事のはてな?」東本願寺

 

 

なんで宿題せなあかんの
2022.9.9|法話・感話

ルリマツリ(イソマツ科) 初夏〜秋まで長く爽やかなブルーの花を付ける

 

◎なんで宿題せなあかんの

ずいぶん昔の事になりますが、小学校にいたころ、教室での子ども達の何気ない言葉が今になって心に残っています。

 

夏休み前になると子ども達にどっさりと夏休みの宿題を用意しました。今では形式的な宿題など少なめにして「もっと自由に遊ばせ、自ら考える・・夏休みに」という時流になってきているようです。当時は保護者の方からも休みが長いと気が緩んで遊んでしまうので「先生いっぱい頼みますよ!」という声にも応えたものです。

定番の夏休みの友、漢字や計算ドリル、絵日記、読書感想文、絵画、自由研究、ラジオ体操頑張りカード・・等々、こちらも忘れてしまう程、「あれしましょう、これしなさい」と言っていたものです。

 

その時ある子が「先生、なんで宿題せなあかんの?どうせみな死ぬんやろ!」と言ったのです。子どもの言葉でしたから、どれ程の気持ちを持っての言葉では無いのは分かっていたのですが、一瞬その言葉には「ドキッ!」としたものです。

その場はとっさに「そんなん言うんやったら今日の給食、どうせ死ぬんやから、無しにしょうか?」子どもは当然「そんなん、あかん、いやや!」と、「ほな宿題もせなあかんやろ」

「宿題も給食も身につくんやから同じやで」とかなんとか誤魔化してその場を収めたことがありました。今思えばお笑いですが。でも考えてみれば、10才にも満たない子に私自身の「人生観」「生死観」を問われたのは間違いありません。

 

「いつか死んで行くのに、なんで生きる」いわば「生きること」の意味です。

「めんどくさい、そんなややこしいこと考えてたら生きていかれん 仕事仕事!金儲けせんと」と、これもまた誤魔化して、忙しい忙しいと肝心なことに目を瞑って生きてきたのかもしれません。

 

あれから40年、こちらも良い歳になってみると、その子の問いかけが心の底の方に取り残されていたのです。「いつか死んで行く命を、なぜ今生きるのか」です。

頭でいくら考えても答えの出ないこの大きなテーマに、お釈迦様は「人は死ぬからこそ、よく生きよ」と応えられたのです。

 

確かに、死があるからこそ生まれた意義や、生きる喜びがあるのだと。もしも死ぬことのない永遠の命があるとすれば、かえって生きる喜びは見出せないのかもしれません。迷いがあるから、覚るということがある。悩みがあるから良く生きたいとも思う。病気をしてやっと健康のありがたさに気づくのもそうです。

来年の3月に退職すると決めた最後の1年は、今までの通年の一年と全然違いました。子どもに渡す一枚の連絡プリント、運動会の行事案内も「来年は無いんやな」と思いを込めたものでした。

 

親鸞さんのお書きになった教行信証の初めの言葉に「悪を転じて徳となす」とありますが、そこには「悪を滅して」捨てたり目を瞑るのではない、悪のままに「悪を転じて」との前向きな意味のある受け止めがそこにあるのだと思います。

盂蘭盆会・戦没者追弔会2022

夏草茂る大和川堤防から二上、葛城、金剛の山並みを望む(夕刻)

 

 

8月15日正午

盂蘭盆会&戦没者追弔会のお勤めをしました。

身内に戦没者がおられ、毎年のようにお越しになる方や、この度初めてお参りになった方もおられました。内陣にお預かりしている遺影を安置しました。

 

始めにNHKの全国戦没者追悼式の中継番組を視聴し、総理の挨拶、正午に合わせて1分間の黙祷、天皇陛下からの御言葉をいただき、堂内の皆さん一同、東京の国技館とテレビリモート参加のかたちをとりました。喚鐘を区切に正信偈のお勤めをし、住職から前住職から聞き伝えた戦前戦後のお話しをしました。

 

境内の築山は簡易防空壕跡、父が掘ったら日露戦争従軍経験のある祖父は、「壕は入口で曲げて出口も作るものだ」と言ったとか。その周りはさつまいもの畑、焼け出された市内の人が食べ物に困り着物と交換してくれとこられたらしい。等々

 

既に直接戦争体験を聞ける方が少なくなり、私たちが語り継ぐ時代と感じます。

 

今日は不戦の誓いをする日

兵戈無用

 

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