法話・感話
赤ちゃんの泣き声
2025.9.22|法話・感話
・
赤ちゃんの泣き声
ご門徒さんの月参りで色々世間話をします。よく、月日の流れの話になり、「もうお彼岸やね、この間にお盆をしたとこやのに、ゆうてる間にクリスマスたら、年の暮れたら、そしたらすぐお正月やろ」必ず後に付く言葉は「一年あっという間や、また一つ歳とらなあかん」「歳とったらあかんな」という事です。
私としては返事に困り、坊主として「歳とって楽しいわ」とか「この歳になってやっと世間が見えてきましたわ」「本当のことに気づけて良かったわ」「今が一番ええわ」・・などの言葉を期待してしまうのですが如何せんそこで話が終わってしまいます。
ある時、あるご門徒のご自宅で法事を勤める機会がありました。家族と親戚の方が寄られてお勤めが進んできたとき、若いお嫁さんが赤ちゃんを抱いておられて、一生懸命にあやしておられました。法事の雰囲気を壊してはいけないと思われたのか、それでもやっぱり「えーん、えーん」と泣きはじめたのです。でも周りの大人の方々は暖かい目で見ておられホッとしました。泣いていたら、「なんで泣いているのかな、お腹がへったのかな、おしっこがでたのかな?」と、喋れない赤ちゃんの心根を想像します。赤ちゃんはただ泣いているだけなのに周りにはたらきかけるものをしっかり持っているのです。つまり、はたらきには役に立つとかたたないとかは関係ないということです。赤ちゃんは世話をかけるばかりです。何かの役にたたないのかもしれません。でも役に立つ、たたないに関係なく、目にはみえなくてもそれぞれの関係のなかで「はたらき合うものがある」ことを感じさせて頂きました。
「歳とったらあかんな」というのは、歳がいくと身体の調子も悪くなる、膝や腰も痛くなって動きにくくなる。物忘れもするようになるし目も霞んでくる。人さまのお役にたたんようになってアカンなあ、という意味だと思います。しかしこの赤ちゃんのように、そこに居るだけで目に見えないはたらきがあるように思えるのです。
ただ、そこに居るだけで人にはおおきな命の意味があるのです。
生還せる特務曹長「鷲 康勝」
願立寺の元住職 鷲 康勝(1873〜1951)(現住職の祖父)の日露戦争従軍時の笑うに笑えないエピソードを坪内祐三著「探訪記者・松崎天民」より抜書きしたもので、明治当時の世情や河内太田の村人の様子が記事となっている。
考えてみれば、やはり戦争は様々に真実を遠ざけるようである。
(誌面の都合で一部現代文へ書き換え、省略等あり、ご容赦ください)
この話は8月15日の、盂蘭盆会・戦没者追弔会に紹介する予定。
・
最も奇抜であったのは、金州丸事件の特務曹長、鷲康勝氏の事件であった。大阪毎日(以後大毎)では行方不明と報道したが大阪朝日(以後大朝)では木崎好尚氏が編集して「壮烈なる最期を遂げたる」という事に確定して書いたのであった。河内在の鷲氏の家郷でも、行方不明と報じた大毎の態度を煮え切らぬ事に思って、大朝の「壮烈な最期」を当然のように思い、信じてしまうのが当時の軍国美談的心持なのであった。
一か二か、甲か乙か、編集局に達した報のどちらとも判明しないものを何れかに片付けたい編集記者の心理は一種独特で、特に一世を挙げて戦争の犠牲者を謳歌する国中、人々の心情に充ち満ちていた折柄であって「行方不明」はまどろかしさがあって木崎氏の第六感が「鷲特務曹長は、割腹してでも死んでいる」と力強く囁いたからであろう。
そういう編集部の雰囲気に命じられ天民は、鷲特務曹長の出身地の河内に出張し、昼夜を分かたず取材を重ね「鷲特務曹長の家郷を訪れる」という三回連載記事を執筆し、その「壮烈な死」をほめたたえ好評を博したという。
鷲氏の家郷では一家一門の面目ばかりでなく、一村一郡の名誉この上なし、とあってやがて盛大なる村葬の儀が執行され、西村天囚翁の荘厳端麗な弔辞は木崎好尚氏によって仏前に献げられたりした。
これと対照的な態度だったのが大朝のライバル大毎であって、その消息に関して名誉の戦死説をとらず、ごくあっさりと葬儀は昨日・・・との極く簡単に扱った。葬場でも村人達は大毎の態度を不快がり、大朝のの確定的勇士扱いに随喜しているように見えた。
・
それで終われば何もなかったようなのであるが、盛大な村葬を営まれた鷲特務曹長が、なんと一年ほど経て、生きて家郷に還ってきたのであった。
死んだのでもなく行方不明でもなく捕虜となっていたのであるから事実が判らぬ以上は「行方不明」の大毎の勝利と言わなければならなかった。その罪滅ぼしのために天民は「生還せる鷲特務曹長」という記事を書かなければならなかった。そういう天民の取材に歌人の与謝野鉄幹を思い起させる風貌の鷲特務曹長がとても面目なさ相うにしているのが、かえって気の毒に思えたりした。上司の木崎氏は「大きな喜劇やないか。見当違いもこの位になると目覚ましうて良いやないか・・・」と身体を揺り上げて笑っていたが、当の天民は笑っても笑い切れない気持ちであった。
ところがこの誤報事件にはさらにそのあとががあったのだ。
この事件を自伝「人間秘話」(新作社)や中央公論「新聞記者懺悔録」等に記述したが次の引用文に目を通して頂きたい。
当時大朝編集局の幹部では鷲特務曹長割腹の一件を半信半疑としていたが、兎に角死んだものとして報道していた。私如きは全く割腹を信じ込んでいたから、村葬の当日はフロックコートを着て太田村へ出張し降る雨の中を会葬しその勇士の死を弔った。その葬儀が又頗る珍なるもので、故人の妹が在学していた基督教のウイルミナ女学校からは女教師、生徒の一団が来て聖書を朗読し聖歌を唄い、祈祷した。真宗の南無阿弥陀仏に神官の祭文、知事代理の弔文、小学校生徒の唱歌と云う風で、随分賑やかなものであった。
肝心なのはこのあとである。私は悲哀の調子の充ちた葬儀の記事を書き木崎氏に渡すと「壮烈なる戦死を遂げし」はどうも疑問であると。「生死不明の噂ある・・・」として雨が降って物淋しかった等は書くまいと云うことであった。取捨は勝手にと答え机に置いたが翌日の大毎の記事とは大変な相違であった。私の記事は七十行が三十五行に削られしかも「生死不明の・・」とある。これを見た太田村の村民親友人は何と思ったであろう。果然その日の午後、村葬の委員たる友人二人が「松崎さんにお目にかかりたい」との権幕であった。
・
ただし、これは天民が不正確なジャーナリストであったことを意味しない。天民は独特の正確さを持っている。特務曹長の無事帰還を知った時に、「もしこれを新聞の材料にせぬのは嘘である。死んだと思われた事も捕虜になって帰還されたのも新聞の材料である。
・
日露戦当時、金州丸の航路と沈没地点
・
陸軍特務曹長 鷲 康勝 (願立寺元住職)
老人ホームと居場所
2025.4.16|法話・感話
境内のイチハツ。 この頃一気に咲き出します。アヤメ科の先鋒、一番手です。
・
老人ホームと居場所
昨今の家庭や社会の変化とともに、老後の暮らしをどう考えるかが大きな課題となってきました。持ち家の処分や老人ホームへの「住み替え」を検討する高齢者が増えています。経済的に余裕があっても「後悔しないように」と準備をされながらも、理想と現実の違いを耳にされるといいます。
・
〇〇さんは奥さんと二人暮らし、真面目に地道に暮らしてこられたので、貯えと年金もそこそこあって、たまには旅行など気ままに生活を送ってきました。ところが高齢者仲間入りをして先々のことが心配になってきたといいます。気の付く奥さんと相談して早くから「終の棲家になる良い老人ホーム」の情報を集め真剣に考えました。
あちこちと現地にも足を運び、最終的に自然環境にも恵まれた高級老人ホームへの入居を決断。入居一時金や、月額費用も高額でしたが快適な老後のため最後の投資かと納得したといいます。
選んだ施設は山や海に囲まれた静かな立地、ジムや図書室、談話室、温泉付き浴場も完備で腕自慢の料理長監修の食事。医療サポートも充実してつねに看護師が勤務し、いずれ介護が必要になったときは対応可能で「ここで良かった、安心だ」と思ったそうです。ところがそんな理想的な生活は長く続きませんでした。見えなかったのは「孤独」と「違和感」だったのです。
・
入居後しばらくは、理想的な生活が続きました。掃除や食事の支度からも解放され、整った環境でのんびりと過ごす日々。おいしい食事と快適な住空間に、ここを選んでよかったと思ったそうです。
ところが、ふたりはその生活に「空白」を感じ始めます。朝起きて、決まった時間に食事をとり、ロビーで過ごすか、それぞれの部屋で読書やテレビ鑑賞。気がつけば、毎日が単調でした。散歩も良いのですが見渡す限り、森と田畑が広がっているようなロケーション。環境はいいのですが、なにより刺激がなく毎日が単調で息苦しさを感じるようになったのです。また人間関係にも壁を感じる毎日でした。高級と名の付くホームですから、地元の顔役や医師、社長、談話室では自慢話の数々、違う地域から引っ越してきた○○夫妻にはついていけない、呆れるような内容ばかりで、自然と距離ができてしまったそうです。
・
「静かな環境は魅力的でしたが、それだけでは満たされないものがありました」と○○さんは話します。
自宅では近所づきあいや買い物先での立ち話など、ちょっとした人との交流、面倒ないざこざも含め、今から思えばそこに「日常」が存在していたのです。ホームでの生活が数か月を過ぎたころ、夫妻は再び話し合いを重ね、「このままここにいるのは違う」との結論に至ります。幸いだったのは、入居に際してすぐに自宅を処分していなかったことでした。奥さんの「しばらくは様子をみてから考えよう」とされたことが良かったのかもしれません。
・
ふたりは自宅に戻り、改めて「本当の自分たちの居場所」を考え直すことにしました。一度理想を追い求めてみたものの、実際に体験してみて、「本当に必要だったのはこれではなかった」と気づくケースも、今後さらに増えていくかもしれません。
・
寺報東光2025-5より
[参考資料]内閣府『高齢社会に関する意識調査』
「ありがとうの反対はあたりまえ」 永代経法話より
ありがとうの反対はあたりまえ
「ありがとう」は「有り難し」と書きます。
生まれてきた事、今生きている事、口から食べ物を食べられる事、身体を自由に動かせる事、ケガをしても治る事、また大切な家族がいる事、共に笑い合える事、時にケンカしながらもまた向き合える事、一歩引いてみると色んな人と出会える事、反対に一歩出てしまうと出逢いが失われる事、どんなに無理難題を自分に課せようが、朝には目が覚めてまた動き出せる事、そして必ずいのちを終え、仏の人生が始まること。
それら全てに「ありがとう」と頭が下がる時は、悲しいかな、それらひとつひとつの事が出来なくなったり、大切な方を失った時が多いのではないでしょうか。
「あたりまえの事など一つも無いぞ」と仏さまは教えます。そして、今実感出来なくてもいいから、常に「有難う」と口に出しておいて欲しいと願われています。 稲垣直来
・
◉スノーフレーク ヒガンバナ科の植物の1つ。和名はオオマツユキソウ、別名はスズランスイセン。
◯ご門徒Mさんの玄関先にて
蓮如忌
2025.3.27|法話・感話
熱心なご門徒がお参りになり、蓮如忌のお勤めをしました。
蓮如さんのお話しと、上人が定められたお荘厳をテーマにお話ししました。
*************************************資料
蓮如上人(れんにょしょうにん)
室町時代の浄土真宗の僧。真宗大谷派第8代門首。(1415~1499)
・
本堂でご本尊に手を合わせるとき、正面は阿弥陀様、向かって右側には親鸞聖人の御絵像がかけられている。
向かって左側にかけられているのが蓮如上人。お内陣にかけられているくらいだから、浄土真宗にとってとても大切重要なお方であった。
蓮如上人は本願寺の第八代御門首、随分昔の人になる。時代は室町時代。親鸞聖人が亡くなってから150年後に生まれられた。聖人直系のご子孫になる。
・
今でこそ大きく立派な本願寺であるが、その頃の本願寺は、天台宗青蓮院傘下の一般末寺でしかなかった。どちらかと言えば、他宗や同じ浄土真宗の他派の勢いにおされ、
「さびさびとしてお参りになる方もいない」
というほどのさびしいお寺であったそうである。その本願寺を、一大教団に育て上げ、日本中に熱心な門信徒を排出するほどに大きくされたのが「蓮如上人」ということでである。多くの功績が後々までも語り継がれ、中興の祖とも呼ばれている。
・
浄土真宗の教団を大きくするためにどんなことをされたのか。
まずあげられるのが「御文」による布教である。浄土真宗のお念仏の教えをお手紙として記されたもので、京都・大阪だけでなく、全国の門信徒たちに送られた。生涯をかけて三百通以上の御文が記された。
・
さらに名号本尊の授与があげられる。
「南無阿弥陀仏」や「帰命尽十方無碍光如来」といった名号を白紙に墨書し、門弟、信徒たちに次々と授与された。
ほかにも、正信偈和讃を朝夕のおつとめとして制定され、作法として後々に引き継がれたことが大きい。
「講」や「寄り合い」というグループを各地のお寺を中心に作り、村ごとのまとまりで布教をされたことなど、多くの功績が伝わっている。
・
しかし、そうして門信徒を増やしていくことは多くの法敵を生むことになった。南都北嶺、奈良をはじめ高野山や比叡山などの旧仏教から迫害を受け、それこそ命がけの布教をされたのであった。
・
蓮如上人 願立寺蔵(蓮如忌資料2025.3/27)
願立寺の初代鬼瓦
願立寺鬼瓦(初代)
この鬼瓦は明治末期に大屋根から降ろされ、平成十八年の本堂大修復の折に本堂床下から見出されたものである。幾つかのパーツに分かれており、鉄の金具や銅線で固定されていたという。
本堂が再三建された寛延年間以前の初代鬼瓦である可能性が高く、角の先端が折れている損傷等はあるものの、ほぼ制作当初の原型を留めているようである。また、棟の東西に設置されていたこの鬼瓦は左右一対になっており、東側の鬼瓦は口を開けた阿形(あぎょう)をしており、一方、西側の鬼瓦は口を結んだ吽形(うんぎょう)をしており、東西で阿吽(あうん)、月日、陰陽・雌雄を表しているとも伝えられている。
鬼瓦には凡そ真宗的ではない魔除けの役割もあるようで、この事からも、他宗派の寺院からの移築本堂であることが推察できる。瓦一つをとってみても、それぞれに深い意味が込められているようで、大切な本堂を棟瓦の先端から見守ってくれた意味、歴史などを考えてみたい。
現在は本堂西側の土塀内側のもとに置かれており、いつでもご覧になり往時を偲んでいただくことができる。
寸法;横幅120cm、高さ60cm、厚み40cm
・
本堂鬼瓦(棟東側・阿形)
・
本堂鬼瓦(棟西側・吽形)
往生道
2025.1.15|法話・感話
◎確かな方向をいただいた人生を「往生道」という
「往生」という言葉ほど誤解されている言葉はありません。「弁慶の立往生」や「往生しまっせ」というギャグがそれです。浄土に生まれ仏と成ることが「死」に直結し、それが「困る」ことになったのでしょう。そもそも「往」の字には、もともと目的地に向かって進んでいくという意味があるのです。往生とは「浄土に生まれよ」という阿弥陀の呼び声に気づいて目覚めの世界の浄土に「往き生まれよう」との方向をいただいた人の生きざまなのです。決して行き詰るのではありません。曽我量深師は「往生とは希望をもって生きること」とも教えられています。人生の確かな方向を持ちたいものです。
春 山川草木、生命が芽吹きだすとき。彼岸に向かい「いのち」にいきる季節のスタートです。
(出典参考:いのちのことばⅡ) (寺報東光2025/2月)
・
ほうき星と智慧
2024.11.6|法話・感話
○ほうき星と智慧
今年の10月にほうき星が夕方西空に見えました。「紫金山・アトラス彗星」というのが正式な名前です。望遠鏡などを使わず肉眼で見えるほうき星は1997年に見られたヘールボップ彗星以来ですから、とても珍しい現象でした。
「ほうき」といえば漢字で「箒」という字を使います。この漢字は象形文字で箒、帚、篲、彗といった幾つかの書き方があったようで、中でも「彗」という字は、彗星(すいせい)という言葉で今もよく使われます。彗星の別名を箒星(ほうきぼし)と言い、かつて昔の人が彗星を見て、ほうきを連想した様子が浮かぶようで、改めて漢字の奥深さに感心しました。
「箒」と言えばお経の中に出てくる有名な話があります。阿弥陀経の始めにお釈迦さまのお弟子さんが紹介されていますがその中に「周利槃陀伽」(ハンタカ)という人が登場します。
ハンタカさんはお兄さんと共にお釈迦さまの元で教えを学び始めますが、兄は秀才で教えを一度聞いたら忘れません。ところが弟のハンタカは直ぐ忘れてしまいます。兄さんはお前にはせっかくの教えを理解する事は無理だと実家に帰してしまいます。悲しみのハンタカの話を聞いたお釈迦様は彼のもとを訪れ話しを聞きます。そこで手渡したのが一本の箒だったと言うのです。
「ハンタカよ、これが何かな?」「ほうき……でしょうか?」「どういう字を書く?」・・・黙り込むハンタカに、お釈迦さんはこう応えました。
「『彗』と書く。また、これで掃くことを彗掃(すいそう)と言う。あなたにはこれから、この祇園精舎の敷地を彗掃してもらおう」
「スイ・ソウですか?」「そう彗掃です」ハンタカは、『彗』の字がわかっても、『掃』の字を忘れてしまい、反対に『掃』の字がわかっても、『彗』を忘れてしまい、覚えることができませんでした。「彗掃まぁハンタカよ、とにかくやってみることだ」と
そうして、自分を見つめ毎日毎日彗掃をして祇園精舎を塵一つない精舎にしたのです。やがてハンタカさんは「彗掃」の心に目が覚め、お釈迦さまの大切な弟子の一人になったといいます。
自分が愚かであることに気づいている人は、智慧ある人なのです。愚かであるのに自分はかしこいと思っている人こそ、本当の愚か者なのです。
彗と慧の意味もまた印象的です。一般的に「ちえ」という字は「知恵」と書きますが、仏教では「智慧」という漢字を用いるのです。彗の心です。
・
紫金山・アトラス彗星(2024年10月夕空に見られたほうき星)
六地蔵さん
2024.9.14|法話・感話
・
六地蔵さん
太田の共同墓地は昔から村人が共同してお守りしてきた大切な墓地です。正面のお堂には阿弥陀如来さま、入口右横には地蔵さまがお参りの方をお迎えしておられます。
地蔵さまは六体あって「六地蔵さん」と親しまれ呼ばれています。
お地蔵さまの正式なお名前は「地蔵菩薩」です。ご本尊の阿弥陀仏の両脇におられる観音菩薩様、勢至菩薩様と同じ「菩薩」というお仲間です。この「菩薩」という言葉は、インドの古い言葉の「ボーディ・サットヴァ」という言葉がなまったもので、「悟りを目指す者」という意味があります。阿弥陀さまや、お釈迦さまのように悟りを開くところまでは行っていないけれども、長年仏様を目指して修行をしてこられた方々を菩薩とお呼びしているのです。
・
六地蔵の六という数字には意味があります。これは六道輪廻という教えからきています。人は六つの道をグルグル経巡って生きて、そこから中々踏み出すことができない、それが苦しみの根本なんだと。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの道です。
「天」は寿命も長く、嫌なこともなく思い通り幸せに暮らせるという世界です。最高の場所に思えますが、欠点もあり「幸せすぎて、何も持っていない人の苦しみが分からない」のです。有頂天になってストンを天から落ちてしまうこともあります。
次が「人」、私たちが今生きている世界です。色々と辛い四苦八苦もあるけれど、その分楽しいこともあるし、人の言葉がわかり仏の教えに出会って、救われるチャンスもある世界です。三つ目は、「修羅」、ここではみんなが常に争っている戦いの世界です。「修羅の道」といいますが、「あいつが悪い、あいつのせいだ」を指します。「畜生」は動物の世界です。飼い主に大事にされ、家族同然のペットであれば幸せかもしれませんが、括られて、ほとんどは本能に振り回され、弱肉強食の中で短い命を終えてしまいます。次は「餓鬼」、いつもおなかがすいていて、食べ物を食べようとしても口に入れる前に燃えてしまい、飢餓に苦しむ「いつまでも欲しい欲しい」の世界です。
最後が「地獄」。色々な種類がありますが、例えば重い罪を犯した人が罰を受ける世界です。源信僧都の往生要集に示された血の池だの針の山だの、地獄絵図を見るといかにも恐ろしげです。「嘘ついたら地獄行きやで」と子どもに諭したあの世界です。
・
仏教の中で、地獄に落ちるとか、畜生に生まれるとが言われてきたのは、人が悪を行わず、善いことをするようにという、教訓的、警告的な意味があったからでしょう。
しかし、お釈迦さまの教えの基本からすれば、この六道はいずれも、私たちが現在の人生において、入れ替わり立ち替わり、次々と経験しなければならない苦悩の状態を教えたものと受け止めるのです。六道は私たちが自分の行いの報いとして日頃に経験している苦しみのことであるのです。阿弥陀仏の本願を敬い、本願を喜ぶならば、苦しみの状態を一歩超えられる「七」というお浄土の世界があるのです。私たちのお墓の入口に六地蔵さまが立って居られる意味を考えたいものです。
« 前のページへ |