法話・感話

一汁一菜
2019.11.8|法話・感話

料理家の土井善晴さんが、最近提案されておられます。
世の中があまりにも贅沢になりすぎて、おかず5〜6品が
作り手に大きなプレッシャーにもなっているそうです。

 

食事の原点は質素な「一汁一菜」でよい。
ご飯と具の入った味噌汁、お漬け物。
それで十分!という提案。

 

蓮如さんは「お斎」(おとき)を大切にされたそうです。
お斎は、法事の後、皆さんでいただく食事のことです。
勤行、法話、そしてお斎があって法事が成立するのです。

 

法事は難しいお経で始まるものの、法話で意味や内容にふれ
そして、食事をしながらさらに噛み砕いていく。
膝をつき合わせて話し合いながら、信心を確かめ合うことを
大事にされたのでしょう。
その時の食事が、まさに「一汁一菜」

 

お参りのご門徒に尋ねました。
今までで、「一番おいしかったのは何ですか?」と
皆さん、うーうーん・・となんとか思い出し
搾り出した記憶には

 

・疎開先で父がつくってくれた「蒸しパン」
・戦争中、弟と食べた「おにぎり」
・戦後、進駐軍から貰った「お菓子」
・小さい頃、近鉄百貨店で食べた「オムライス」
それぞれの話には心に沁みる思い出がありました。

 

恥ずかしながら、住職は
・子供の頃はじめて食べた「チキンラーメン」
でした。
姉と3分待って蓋を開けた一口は衝撃だったのです。

 

どれも、今、飽食の時代にはお世辞にも
美味しいご馳走とは言えないかもしれません。
でも、その時は最高に美味しかったのです。

 

一番美味しかったのは
決して豪華な御膳ではなかったのです。

 

秋彼岸に想う②「二河白道」
2019.9.23|法話・感話

 

旅人が西に向かって行くと突然火の河と水の河に出ます。火の河は南に広がり、

水の河は北に続いていると二河白道の喩えがあります。

 

最近の夏は猛暑続きでクーラー無しでは過ごせなくなりました。汗まみれで耳の近

くに蚊の羽音が聞こえるとちょっとしたことですが嫌なものです。また、

冬は冬で底冷えして風邪をひいたときの辛さは譬えようもありません。

子どもの頃、暖かさを取り合い兄弟で火鉢の良い所を取り合って喧嘩したものです。

まさに「貧愛水のごとし」でした。

そして旅人はその二つの河の中間に白い道を見つけると描かれています。

それが彼岸への道であろうということです。

 

善導大師は続いて「中間の白道四五寸というのは、衆生の貧愛・慎憎の中に

清浄願心を発すに喩えている」と説明されています。「貧愛・慎憎の中に」

とはまさにその通りだと思うのです。春の彼岸の時は、これまでは「やっと

寒い冬が終わった」と思っていましたが、そうでなくて、「これからあの

嫌な暑い暑い夏がやってくる」その中で私はどう生きるのか?と。その中に

身を置いて考えるときではないでしょうか。秋の彼岸もまったく同じことです。

 

私たちの人生は楽しいことばかりではありません。人はいろいろな悩みや苦しみを

持って生きています。でも、人は苦しみや悲しみから逃げて幸せになるのでなく、

苦しみや悲しみの中に救われていく道があることを示してくださっているのです。

 

我々は年々、齢を重ねてゆきます。一歳一歳、齢を重ねるごとに体調に問題が

おきてきます。膝が、腰が痛い、目がかすむ、物忘れが・・・と。よく考えれば、

あたりまえの事なのに若い頃はもっとしゃきしゃきできたのに、と元気な時と比べて

愚痴を言ってしまいます。それを悲しみ苦しみにしてしまうか、白い道は細いけど

しっかり歩みを進めるのか。

「今こそ救われる時なのだ」ということを心に留めて生きて行きたいものです。

秋 彼岸に想う① 「二河白道」
2019.9.22|法話・感話

ガンジスの日の出

 

この時期になると日本ならではの季節の言葉「暑さ寒さも彼岸まで」が

しっくりときます。

つい最近までの35度を超える猛暑続きの日から、夕方が早くなって気が

付けば蝉の声が虫の声に変ってきました。

 

私たちは四季折々の季節感を取り入れながら生活してきました。

仏教が生まれたインドの仏教徒は乾季雨季というより、お釈迦様に関わる

時期を大切にされてきたと聞きます。

お釈迦様誕生の4月8日は「誕生会」。悟りを開かれた12月8日は

「成道会」。2月15日は「涅槃会」と言ったものです。お盆(盂蘭盆会)

も忘れてはいけません。

 

「彼岸会」や「修正会」は仏教が日本に伝来してからのいわば

日本風土に根ざした特有のものと言ってもいいものです。

こうして見てみると全部に「会」という字がついています。

これは「法会」ということです。つまり、いろんな時期や大事な日を

ご縁として仏法にお会いする、ということなのでしょう。

私たちの日暮らしは中々余裕がなく仏法に会うことがありません。

そこで、なにかを機にして仏法を聞く時と場を設けることをされて

きたのだろうと思われます。

 

お彼岸にどのような意味があるかといえば、その日は太陽が真東から昇り、

真西に沈むことから、西方浄土に至ることと彼岸に至ることが重なって

 到彼岸の意味が示されているといわれます。しかし、実生活の上では真東、

真西かということより、やはり暑さや寒さの境といった方が実感的な

気がします。

さて、彼岸と言えばいつも思い出すのが善導大師の「二河白道の譬え」です。

終戦の日
2019.8.15|法話・感話

月参りでのお話し  終戦の日

 

「院主さん、あんたの息子さんが戦争に行って
戦死するようなことあったらどう思いなはる」

 

戦前戦後を生き抜かれたお婆さんの一言です。
ドキッとしました。

 

わたしら戦前の教育を受けていたからそれが当たり前、
かえって名誉な事やと子ども心に思っていました。
今の時代から見たら考えられん事ですわ。

 

うちは父が兵隊に行くには歳とってたさかい、いかなんだ。
おまけに、兄がいない家やったさかい
お国の為に兵隊に出さん事、つまり役にたたんということは
何となく世間さまに申し訳ないことやと思っていました。

 

隣村で戦死しゃあはったとき、葬式の行列が立派で
軍服に白いタスキをかけて周りを日の丸で囲まれて
いるのみたとき、お国の為に立派 に尽くされたんだと
ほんとに思ったもんです。
影で家の人が泣いてるとも知らんと。

 

8月15日の終戦の日、畑で水車を回す手伝いをしてて
父が、「なんや、お昼に天皇さんが話あんねんて」
ということで家に帰ると、いつもは昼の間、足洗ったこと
ない父が足をきれいに拭いてラジオを聞いてんねん。

 

天皇さんの放送が流れても国民学校初等のわたしには
何のことか分からへんかったのですぐに遊びにでました。

 

友だちから、「日本負けてんで」って聞いたとき
「そんなん、ぜったいあらへん!嘘やろ」と、
本気で思ってました。

 

だから教育って一つ間違うたら怖いもんでんなということ
今の時代やからこそ、つくずく思いま。

 

こころに響く、語り継がなければならない
お婆さんの言葉です。

山里の鹿
2019.1.18|法話・感話

先日、山里で深夜、鹿とバッタリ出遇いました。
こちらを睨んだあと、あっという間にススキの原に消えていきました。
見事な角を持った、立派な雄鹿でした。
地元の方の話でも鹿や猪が増加して、せっかく丹精込めた農作物を荒したり、
木々の樹皮を剥いで枯らしてしまうなど、被害が出ているということでした。
前々から話には聞いていましたが、今まで見かけ無かった場所で突然出くわし、
こんなところにまで鹿が進出してきたのかと驚かされました。
地元の人たちは畑に電気柵を施し、真っ暗な段々畑に時々LEDの赤や青の
閃光が走るようになりました。山里での生活を守るやむを得ない自衛策だろうと
思います。遠く北海道では近年、本格的に鹿を駆除の対象にして、自衛隊の
助けまで借りて大がかりな応援協力が実行されているほどだと聞きます。
しかし、この事はつきつめて考えてみると、「全ての命が共に支え合っている」
ということを何処かにおき忘れた「人間の身勝手さ」と言わざるを得ないような
気がします。
鹿の増加は、かつて鹿を乱獲した影響で、天敵のオオカミが家畜を襲うように
なったため、オオカミを駆除し絶滅させてしまったことによる影響だといわれて
います。アメリカのイエローストーンでの鹿とバイソンやオオカミの関係や
個体数の調整などでも同様のことがあったと聞きました。
共に支え合っていることを忘れて、人間の都合で危険で嫌いなものは排除し、
可愛くて好きなものは大事にする。
ところが、条件が変わって邪魔になると一気に排除する私たちです。
仏法では、 「全ての命在るものは、人間の好き嫌いといった都合に関係なく、
それぞれが一つの尊い命として輝き、互いに支えあっている」と説きます。
何一つ無関係な命は無いのだろうと思います。
私たちが生きていく上でも、多くの命に支えられています。
そして、その多くの命を奪って自分の命としていますが、それになかなか
気付かないまま当たり前のように猟をし、食料としてしまっている私たちです。
人間同士が支えあっているだけではなく、全ての命に支えられているという
感謝の思いと同時に、多くの命を奪い続けてしか生きられないという意識を
持つことが大切なのではないでしょうか。

台風一過に想う
2017.10.24|法話・感話

台風一過の夕方

 

大きな台風が通り過ぎました。

 

昔から人々は様々な自然災害をどう受け止めていたのでしょうか。

仏教では地、水、火、風の四つを、この私たちの世界を造っている根源の

事象と説いています。

それぞれのバランスが良ければ平穏無事ということなのですが、

それが少しでも偏ると私たちには手の付けようのない巨大な力となってしまいます。

地は地震、水は大雨や津波、火は大火事、風は今回の台風というように

考えてみてください。

 

当然の事ながら、大災害の前にいる人間はただ無力としか言いようがないのです。

そして人は、どうしてこのような災いが起こるのか、どうしてこの私が

こんな目に会わないといけないのかを、いつも考え悩んできました。

そこに大きな力への恐れが消えて無くなることはなかったはずです。

このような災害は「こんな経験は初めて」というような言葉では

 片づけられない事でもあるし、消えて無くなることもありません。

 

「起こることは必ず起こる」と仏法は教えます。

 

同時に、災害は自然を壊し資源や食べ物などを使い捨てている今の私たちの

暮らしに対する大いなる警鐘と受け取ることもできるのです。

 

被災された皆さんの一日も早い復旧を願いながら、自身の足もとを見つめ直す

大切な機会としたいと思います。

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