法話・感話

人と熊の命  〜命をめぐる悲しみと願い〜

急いでやってきた羽曳野の秋

人と熊の命  ~命をめぐる悲しみと願い~

今年の秋、熊の出没が各地で相次ぎ、近くの地域でも不安の声が聞かれます。農作物の被害、人的な事故。その中で、やむを得ず熊を捕獲し、殺さざるを得ない現実もあります。そのたびに、私たちは「これは善いことなのか、悪いことなのか」と心が揺れます。

 

  親鸞さんは、『歎異抄』の中で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と仰っています。

この「悪人」とは、悪事を働く人のことではありません。むしろ、自分の無力さ、愚かさ、迷いを自覚する者のことです。「私は正しい」「自分は善人だ」と思い込んでいる心こそ、仏の目から見れば迷いなのです。善と悪を分けるのは人間の都合ですが、阿弥陀さまの慈悲の光は、善悪の分け隔てを超え、すべての命が包まれるということです。

 

山奥に熊がいて、村里に人がいます。どちらもこの地球という大自然の中に生きる存在です。けれども、私たちは田や家を作り、山を切り開き、熊たちの住む場所を狭めてきました。熊が人里に降りてくるのは、飢えや恐れからです。熊も生きようとしている。どんぐりを食べるのも人を襲うことも熊にとっては当り前。ただ、それだけのことなのです。

人の命を守るために、やむを得ず熊を殺すことがあります。それを「悪」と断ずることはできません。しかし、忘れてはならないのは、その行いの中にある悲しみです。「仕方ない」と言って終わりにしてしまえば、私たちは命の尊さを見失います。「どうかその熊の命が、無駄になりませんように」と手を合わせる心、それが仏の慈悲に通じる道だと思うのです。

 

本来、山に熊がいて村に人がいるのです。どちらもこの地のいのち。ところが今、人を守るために仕方なく熊が殺される。そのとき、阿弥陀仏の光は、熊にも人にも等しく注いでいるはずです。殺して当然と悲しまぬ心こそが、悲しい。熊の命も、人の命も、共に仏の懐、お浄土に帰るのです。

熊の被害は現実的な問題です。人を守るための行動は必要です。けれども、その中に「命への悲しみ」と「感謝の心」を失わないこと~それが、私たちが仏法を聴聞する身の置き所です。どうか、熊の命を奪うたびに、その命を悼み、感謝する心を忘れずに歩みたいものです。熊の命も、我が命も、同じ光の中にあるのです。             合掌

寺報東光2025.12月号より

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