法話・感話

師匠と弟子
2024.5.28|法話・感話

紫蘭(学名: Bletilla striata Reichb. fil.)は、ラン科シラン属の宿根草。地生ランで、日向の草原などに自生する。


「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。」   
「歎異抄」「聖典」628
 よい先生やよい友達にに出会うことが、大事なことだと言われます。人生を豊かに変える大きな出来事になることも良く聞きました。特に自分にとって「先生」と呼べるような人と出会いはかけがえの無いことで、その方「師」のもとで「生徒」として学び、師弟関係を結ぶのです。師弟関係は、お茶やお花、習字などの習い事の道においても大切なことですし、落語や舞妓さんなどの芸事の世界でも良く聞きます。また、師弟関係は人生の道を学んでいくということにおいても極めて大切で、師匠から細かい技術的な事など直接学ぶことが無くても、その振る舞いや後ろ姿を見ながら弟子として学んでいく、そんな師弟関係を仏教は大事な事柄として語っています。


  親鸞聖人の語りかけを通して、人生の大切な事柄に気付いていった人々が多く生まれました。歎異抄を著した唯円という人もその中の一人です。ですから、親鸞には「弟子」と呼んでもよいような人達が沢山いたわけです。それらの人達は、親鸞を仏教の「先生」として尊敬し、慕っていました。それにもかかわらず、親鸞自身は、「某、弟子一人も持たず候」(自分は弟子を一人も持っていません)と語っておられるのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

 親鸞90年の一生涯において、確かに自身が努力して仏教を学び続けていかれたのにです。そして同時に他の人に仏教を伝えていかれたのも事実です。しかし、そのように親鸞自身が学びかつ伝えていった仏教(浄土真宗)とは、自分の力によって信心を起こすものではありませんでした。また、自分の力によって他の人に信心を起こさせるというものでもなかったのです。この親鸞の気づきが浄土真宗の要なのです。

 都合によりコロコロ変わる我が心の頼りなさや自分の力の限界に気づき、本当の事への目覚めは真実である如来のはたらきによってこそ起こること。そして、その真実の如来の前では、誰であろうと悩めるただひとりの人間という以外の何者でもない。そういう仏教に親鸞は出会われたのです。だからこそ、人と人との繋がりの上では先生と弟子であっても、如来の前では丸裸の対等な人間同士となるのです。
  そのような仏教に出会われた親鸞は、「自分は弟子を一人も持っていません」と言い切るのです。仏教を学ぶとき「先生」であろうが「弟子」であろうが、共に学び合う「友」「同朋」(どうぼう)なのです。

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