法話・感話

山里の鹿
2019.1.18|法話・感話

先日、山里で深夜、鹿とバッタリ出遇いました。
こちらを睨んだあと、あっという間にススキの原に消えていきました。
見事な角を持った、立派な雄鹿でした。
地元の方の話でも鹿や猪が増加して、せっかく丹精込めた農作物を荒したり、
木々の樹皮を剥いで枯らしてしまうなど、被害が出ているということでした。
前々から話には聞いていましたが、今まで見かけ無かった場所で突然出くわし、
こんなところにまで鹿が進出してきたのかと驚かされました。
地元の人たちは畑に電気柵を施し、真っ暗な段々畑に時々LEDの赤や青の
閃光が走るようになりました。山里での生活を守るやむを得ない自衛策だろうと
思います。遠く北海道では近年、本格的に鹿を駆除の対象にして、自衛隊の
助けまで借りて大がかりな応援協力が実行されているほどだと聞きます。
しかし、この事はつきつめて考えてみると、「全ての命が共に支え合っている」
ということを何処かにおき忘れた「人間の身勝手さ」と言わざるを得ないような
気がします。
鹿の増加は、かつて鹿を乱獲した影響で、天敵のオオカミが家畜を襲うように
なったため、オオカミを駆除し絶滅させてしまったことによる影響だといわれて
います。アメリカのイエローストーンでの鹿とバイソンやオオカミの関係や
個体数の調整などでも同様のことがあったと聞きました。
共に支え合っていることを忘れて、人間の都合で危険で嫌いなものは排除し、
可愛くて好きなものは大事にする。
ところが、条件が変わって邪魔になると一気に排除する私たちです。
仏法では、 「全ての命在るものは、人間の好き嫌いといった都合に関係なく、
それぞれが一つの尊い命として輝き、互いに支えあっている」と説きます。
何一つ無関係な命は無いのだろうと思います。
私たちが生きていく上でも、多くの命に支えられています。
そして、その多くの命を奪って自分の命としていますが、それになかなか
気付かないまま当たり前のように猟をし、食料としてしまっている私たちです。
人間同士が支えあっているだけではなく、全ての命に支えられているという
感謝の思いと同時に、多くの命を奪い続けてしか生きられないという意識を
持つことが大切なのではないでしょうか。
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