法話・感話

なんで宿題せなあかんの
2022.9.9|法話・感話

ルリマツリ(イソマツ科) 初夏〜秋まで長く爽やかなブルーの花を付ける

 

◎なんで宿題せなあかんの

ずいぶん昔の事になりますが、小学校にいたころ、教室での子ども達の何気ない言葉が今になって心に残っています。

 

夏休み前になると子ども達にどっさりと夏休みの宿題を用意しました。今では形式的な宿題など少なめにして「もっと自由に遊ばせ、自ら考える・・夏休みに」という時流になってきているようです。当時は保護者の方からも休みが長いと気が緩んで遊んでしまうので「先生いっぱい頼みますよ!」という声にも応えたものです。

定番の夏休みの友、漢字や計算ドリル、絵日記、読書感想文、絵画、自由研究、ラジオ体操頑張りカード・・等々、こちらも忘れてしまう程、「あれしましょう、これしなさい」と言っていたものです。

 

その時ある子が「先生、なんで宿題せなあかんの?どうせみな死ぬんやろ!」と言ったのです。子どもの言葉でしたから、どれ程の気持ちを持っての言葉では無いのは分かっていたのですが、一瞬その言葉には「ドキッ!」としたものです。

その場はとっさに「そんなん言うんやったら今日の給食、どうせ死ぬんやから、無しにしょうか?」子どもは当然「そんなん、あかん、いやや!」と、「ほな宿題もせなあかんやろ」

「宿題も給食も身につくんやから同じやで」とかなんとか誤魔化してその場を収めたことがありました。今思えばお笑いですが。でも考えてみれば、10才にも満たない子に私自身の「人生観」「生死観」を問われたのは間違いありません。

 

「いつか死んで行くのに、なんで生きる」いわば「生きること」の意味です。

「めんどくさい、そんなややこしいこと考えてたら生きていかれん 仕事仕事!金儲けせんと」と、これもまた誤魔化して、忙しい忙しいと肝心なことに目を瞑って生きてきたのかもしれません。

 

あれから40年、こちらも良い歳になってみると、その子の問いかけが心の底の方に取り残されていたのです。「いつか死んで行く命を、なぜ今生きるのか」です。

頭でいくら考えても答えの出ないこの大きなテーマに、お釈迦様は「人は死ぬからこそ、よく生きよ」と応えられたのです。

 

確かに、死があるからこそ生まれた意義や、生きる喜びがあるのだと。もしも死ぬことのない永遠の命があるとすれば、かえって生きる喜びは見出せないのかもしれません。迷いがあるから、覚るということがある。悩みがあるから良く生きたいとも思う。病気をしてやっと健康のありがたさに気づくのもそうです。

来年の3月に退職すると決めた最後の1年は、今までの通年の一年と全然違いました。子どもに渡す一枚の連絡プリント、運動会の行事案内も「来年は無いんやな」と思いを込めたものでした。

 

親鸞さんのお書きになった教行信証の初めの言葉に「悪を転じて徳となす」とありますが、そこには「悪を滅して」捨てたり目を瞑るのではない、悪のままに「悪を転じて」との前向きな意味のある受け止めがそこにあるのだと思います。

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